古事記の武烈の記述はかなり少ないです。
第24代仁賢天皇が、第21代雄略天皇の娘の春日大郎女を妻として産ませた、小長谷若雀命(ヲハツセワカサザキノミコト)が大和の長谷(ハツセ)に列木宮(ナミキノミヤ)(奈良県桜井市)を造って、そこで第25代武烈天皇(ブレツ)として天下を治めました。
しかし、日嗣の御子がいなかったので、応神天皇の5世の孫の袁本杼命(ヲホドノミコト)を近淡海(チカツオウミ)から呼んで、仁賢天皇皇女の手白香皇女(タシラカミノミコト)と結婚させ、次の天皇にしたと書いてあるだけでした。
志都美神社(シズミジンジャ)に車を停めて、陵に沿って回り、拝所を探しました。
でも、日本書紀では天皇になってからの武烈は、妊婦の腹を裂いて胎児を見る、生爪を剥がしてから芋掘りをさせる、樋から人を流して下で待ち受け矛で刺す、髪を抜いて木に登らせその木を切り唐キ、木に登らせて汲ナ射落とす、女と馬を交わらせる、と悪行の限りを尽くしたように書いてあります。
刈り入れまじかの秋の田と御陵の間の細い道を通って廻っていきます。
こんなおぞましい悪行を先祖がしたのだと書くのは恥ずかしいと思うのですが、これは第16代仁徳天皇と言う聖帝の良き政治が、第25代武烈天皇の悪逆無道の天皇で断絶したという、中国の王朝交代思想の影響らしいです。
日本書紀が書かれた頃の人は、万世一系とは思っていず、その時の天皇と武烈以前とははっきり繋がっていないと思っていたので、こんな悪人に書いたのではないでしょうか。
こうして仁徳天皇から続いた家系は、その子允恭天皇の家系も、履中天皇からの家系も途絶えてしまい、仁徳天皇直系の男子は滅びたので、仁徳の父である第15代応神天皇まで遡って繋げるしか道は無くなったのです。
最後は入ってはいけないような所を通り抜けて、拝所に出てきましたが、拝所捜しは一番遠回りしたようです。
武烈天皇は在位9年、18歳で(57歳・61歳説もあり)亡くなり、この傍丘磐坏丘北陵(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)(奈良県香芝)に葬られました。
制札も新しく、砂利もきちっと曹ゥれている陵でしたが、最後私はその砂利の曹ォ目を荒らしながら前方に出てきました。
ここは宮内庁管理の常駐する職員のいる御陵だったので、数名の人が働いていました。
中から出てきたのが見つかったら怒られるところでしたが、危うくセーフ。
今年もあと1週間!
今日はこれから高校駅伝観て、有馬で儲けて、年賀状を書きあげます!
返事
花水木さん:古事記の時代が終わったら、
長いカタカナ名が無くなるので、まだ読みやすくなると思います。
よろしく