島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

26≠R継体天皇父彦主人王

2018-01-21 | 天皇陵巡り
  
 日本の天皇家は万世一系(永久に一つの系統が続くこと)と言う言葉の上に成り立っていますので、系図をたどると、一応現在の今上天皇まで繋がっていることになります。
 しかしながら、前回の第25代武烈天皇から第26代継体天皇との間の繋がりはかなり薄いところがあり、これを万世一系と言うのか、少し疑問にも思います。(他にも、もしかしたら途絶えているかとも思える天皇もありますが)
 第25代武烈天皇が崩御した後、子供や従兄弟などの近い親族に、家臣達皆もこの人を推したいと思う有力者がいなかったようです。
それは、第16代仁徳天皇天皇から始まって、第20代安康天皇・第21代雄略天皇などが、あまりにも近親者を殺しすぎたことが原因にもなっています。
   
 その薄い系統を辿るために、今回は26≠P継体天皇の前に、その父である26≠R彦主人王(ヒコウシノオオキミ)から始めてみます、
 私は家系図をパソコンで書いて出せないので、文章にせざるを得ません、ややこしくて筆力もないので解かりにくいですが、この文を元に家系図を書くか天皇家の家系図をどこかで捜して見て下さい。
 第15代応神天皇1⃣から始めると、1⃣の子には第16代仁徳天皇の他に稚渟毛二岐皇子(ワカヌケフタマタノミコ)2⃣もいました。
 2⃣の子で1⃣応神の孫である意富富杼王(オオホドノオオキミ)3⃣は、第17代履中天皇・第18代反正天皇・第19代允恭天皇とは従兄弟同士になります。
 3⃣の子乎非王(オイノオオキミ)4⃣は、第20代安康天皇・第21代雄略天皇とは再従兄弟(マタイトコ)同士になりますし、1⃣応神からみると曽孫(ソウソン・ヒマゴ)になるということです。
 そして今回の主人公1⃣応神の玄孫(ゲンソン・ヤシャゴ)で4⃣の子である彦主人王は、第22代顕宗天皇・第23代仁賢天皇とは三従兄弟(ミイトコ)同士になります。
   
 このように彦主人王は、天皇家とはかなり離れた存在になっていましたが、地方豪族として、今の滋賀県近江の国と、今の福井県など北越五か国を治め、ここ湖西の高島でかなりの勢力を築いていました。
  
 そして福井県の三国から、当時から有名な美人であった第11代垂仁天皇の子孫と言われる振媛(フリヒメ)を妃として迎え、高島の地で産まれたのが後の第26代継体天皇です。
 写真の如く参道はかなり立派ですが、制札には安曇陵墓参考地(アドリョウボサンコウチ)と書かれているだけでした。
    
 ただし、彦主人王は継体天皇が5歳の頃に亡くなり、若くして未亡人になった振媛は、子供を連れて実家の三国に帰り、実家の支援もあったでしょうが、シングルマザーとして遺児を立派に育てたようです。
 湖西の高島には車で1時間ほどで行けるのでよく行きますが、彦主人王の墓と言われるこの田中王塚古墳(タナカオウヅカコフン)を宮内庁は安曇陵墓参考地と治定しています。
 近くにある鴨稲荷山古墳(カモイナリヤマコフン)からは大きな家形石棺やこんな立派な宝冠(復元品ですが)も出土してるので、湖西地方は6世紀頃はかなり進んだ地域だと思われます。
   
 近くには、振媛が継体天皇のへその緒を埋めたという胞衣塚(エナヅカ)までありました。
奈良盆地より滋賀県琵琶湖周辺は、気候的にも農業的にもかなり住みやすい場所だった気はしますね。

   返事
和さん:*高槻中高は長男です。
     *姫路城の急階段?どこにあたるのか記憶が戻ってきません。すみません。
    天守の階段ですか?
大雪男さん:*幸せ家族も30年前の姿です。
     *たぶんこういうおそろいの服は義母からの贈り物で、阪神ファンと関係ないと思いますが、
    一応子供3人も素直に阪神ファンです。
花水木さん:*家内の足は膝から上が結構太くなっています。
     *セーターが伸びただけで、私の腕は短くなく、当時の私の腕は確かです!?
     *今は夫が妻に寄り添っては拒否されています。
     *長男も今や単に汚いおっさんです。

コメント (1)
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