島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

26≠P継体天皇

2018-01-26 | 天皇陵巡り
  
 古事記では継体天皇でも記述は少なく、第25代武烈天皇が崩じた後に天下を治める人がいなかったので、第15代応神天皇の五世の孫 袁本杼命(ヲホドノミコト) を近淡海(チカツオウミ)から呼んで即位させたと書いた後に、その妻や子の名を書き並べてるだけにすぎません。
 
 日本書紀では、武烈天皇崩御後嗣子が絶えたので、家臣の大伴金村(オホトモノカナムラ)は第14代仲哀天皇の五世孫を丹波国(タニハノクニ)から迎えようとしましたが失敗、あらためて北陸の三国から前回26≠R彦主人王の子、すなわち応神天皇から五世の孫、来孫(ライソン)である 男大迹王(オホドノオホキミ)を迎え、樟葉宮(クズハノミヤ)(大阪府枚方市)で即位させ、第26代継体(繼體)天皇(ケイタイ)となりました。
 以前に行った福井県武生(タケフ)には、継体天皇が越前の王として君臨していた宮跡の石碑もありました。
   
 この時は越前そばを食べに行ったのですが、その近くの岡太神社(オカモト)の境内にある継体天皇潜龍の地の碑。
 *潜龍(センリュウ);潜んでいて、まだ天に登らない龍。
        すなわち、英雄賢人がまだ世に出ないで、隠れていること。
 継体天皇はその頃にはもう結婚していて、目子媛(メノコヒメ)との間には、後に第27・28代天皇になる安閑・宣化天皇が産まれていました。
 頑張って数えると、継体天皇は計8人の妻に、7人の皇子と12人の王女計19人の子を産ませています。
  
 継体は越前から琵琶湖を通り淀川水系を利用し占拠していたので、最初の宮を淀川沿いの樟葉宮に置いたのちも、筒城宮(ツツキノミヤ)(京都府京田辺市)・弟国宮(オトクニノミヤ)(京都府長岡京市)と移り、それまでの政権の中枢に近い大和の磐余玉穂宮(イワレタマホノミヤ)(奈良県桜井市)に入ったのは、即位後20年も経ってからでした。
 それでも御陵は大和ではなく、最初の樟葉宮に近い大阪府茨木市にある全長226ⅿの大きな前方後円墳、この写真の太田茶臼山古墳(オオダチャウスヤマコフン)を三嶋藍野陵(ミシマアイノノミササギ)として宮内庁は治定しています。
   
 名神高速に乗って神戸や大阪に行く途中に高槻を過ぎると、いつもナビの画面左に表われるこの御陵は、防音壁がずっと続いていて車からは見えませんが、陵の周囲を歩いていると、この様に名神高速の壁が見えてきました。
    
 阪急富田駅から歩いて御陵に向かいましたが、周囲には大きな藍野病院や藍野大学が並んでいて、若い学生さんも沢山歩いていました。
   
 参道入り口横には、大きな民家もあります。
 自分の父が天皇でない天皇は、25代までは日本武尊が父の第14代仲哀天皇と、父が山辺押磐皇子の第23顕宗天皇・第24代仁賢天皇の3人だけです。
その後も、歴代天皇で父が天皇でないことは、本人や周りの人の負い目にもなっていたようです。
でも、継体天皇は父どころか、祖父も天皇でない、曾祖父も天皇でない、高祖父も天皇でない、高祖父の父がやっと天皇という系統でしたが、私見ですが、あまりそういうことは気にしないぐらい力強く、また今までの天皇とは違う新しい天皇という自負もあったような気がしています。
    
 拝所は静かです。
 継体天皇の時代は500年初め(6世紀)ですが、この太田茶臼山古墳は5世紀中ごろの造営とみられ、本当の継体陵はここから歩いて訪れた、以前紹介した今城塚古墳の説の方が有力です。
   
 ぐるっと御陵を一周した後円部の方にお墓があって、そこから後円部がまじかに見られましたし、周濠も立派です。
 継体天皇は仁徳天皇からの系統とは繋がっていず、五代前の応神天皇までさかのぼってしか繋がっていません。
そこで第24代仁賢天皇と第21代雄略天皇の娘との間に産まれた 手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を后に迎え、王家への入り婿という形でも政権を固めていったと思われます。
そして、その二人の間に産まれたのが第29代欽明天皇(キンメイ)です。
   
 継体天皇の時代、朝鮮半島でもいろいろな問題が持ち上がる動乱の時代で、九州でも筑紫君磐井(チクシノキミイワイ)の反乱があったりしています。
 82歳で継体天皇が亡くなった後、3人の子が順順に王位を継いで入ったようですが、安閑・宣化と欽明の二朝並立説もあります。
 5世紀から6世紀へと、そろそろ歴史学になってくる天皇家の歴史の中で、本当にいたかどうかも含めてなかなか興味ある天皇です。

     返事
花水木さん:他のセーターは縮んでいるのに、
    このセーターは長いのは不思議と言えば不思議ですが、今も着ています。
大雪男さん:継体天皇からみたら応神天皇は高祖父の父、
    まあ関係ない人と思うでしょうね。
    私の高祖父の父は嘉永5年(1852年)没ですので、全く知りませんよね。
    高祖父は江戸城大奥の門を守る裏門切手番、私の血に女好きがすこし入ってるのは・・・。

コメント (1)
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