島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

96-3後醍醐天皇皇子尊良親王

2021-09-01 | 天皇陵巡り
 
 第96代後醍醐天皇(1288~1339)には沢山の皇子女(16人~32人)がいたと報告してきましたが、その内10人の皇子女の墓が宮内庁治定陵墓になっています。
10人の内皇子は8人ですが、第97代後村上天皇になった第7皇子は別として、一番有名なのは第3(1かも)皇子大塔宮護良親王(オオトウノミヤ・ダイトウノミヤ/モリヨシ・モリナガ)です。
  写真は、奈良県十津川村の大塔にある護良親王像ですが、笠置山から逃げてきた護良親王をここの豪族が助けたので、ここに楠木正成像によく似た像が立っていました
 
 最後は捕まって、父後醍醐に見捨てられたような形で、鎌倉の牢内で惨殺された護良親王ですので、鎌倉に有る墓には行かなくてはならないのですが、今の状況を口実にパスしました。
 他は、京都に有るのですが寺が閉まっていて観れない墓の皇子もいます。
静岡県浜松市・富山県高岡市・熊本県八代市・浜松市に墓があるのは、後醍醐天皇が我が子を総大将にして、諸国の戦や守りや統治に置いたためですが、この四つも今回は行ききれませんでした。
  写真は、護良親王が奈良県吉野で挙兵し、蔵王堂の前にはったが負けた、最後の陣地跡です
 
 そして8人のうち今回の第1皇子尊良親王(タカヨシシンノウ)(1306?~1337)の墓は京都に有るので、紹介します。
 母は歌人としても有名な(私は知りませんが)二条為子(イシ・タメコ)の尊良親王は、父後醍醐の皇太子であった従兄弟の邦良親王(クニヨシ)(1300~1326)が急死したので、皇太子候補に推されましたが、持明院統候補に敗れています。
 
 1331年元弘の乱で父後醍醐と共に笠置山で挙兵した尊良親王ですが、幕府軍に捕えられ、土佐に流されています。
その後土佐を脱出、九州に渡り挙兵、建武新政でで京都に戻っています。
 1335年の建武の乱では、父後醍醐は足利尊氏に降伏しましたが、新田義貞軍の総大将にまつり上げられ、最後は福井県敦賀の金ケ崎の戦いで自害しました。
 尊良親王など後醍醐の皇子たちは、公家と言うより武士に近く、日本中で戦いに明け暮れる生活を送った人が多いです。
 
 金ケ崎の戦いでは、新田義貞の長男義顕(ヨシアキ)(20才)に落ちのびることを勧められましたが、「腹心のお前が死ぬのなら私も自害する。戦場での自害の作法を知らないので教えてくれ」と尋ね、義顕が正式作法で自刃した身の上に折り重なるようにして自害したそうです(30才前後)。
 自害した尊良親王の首は、敦賀から京都永観堂に届けられたそうで、それで永観堂に近いこの地に後醍醐天皇皇子尊良親王墓(左京区南禅寺下河原町)があるのはうなずけます。

          返事
Toitenlabeeさん:八百比丘尼伝説知ってましたね。
    800年生きる!私はいま73歳なので、
    丁度あと10倍730年生きられますよと言われたら、困りますね。
     では何歳の姿形で生きたいですかと言われたら、
    小学生時は病気しましたし、
    中学時代は少しだけですが、いじめられましたし、
    高校時代は楽しかったが、受験がありましたし、
    大学時代は、面白いぐらい人生に悩みましたが、モテませんでしたし、
    外科医時代は心配ばかりしたり、忙しすぎましたし、
    60歳頃の奈留島生活が、体力(精力も)はまだ少し残ってましたし、
    心が落ち着いていたような気がして、60歳で800年いけそうです。
花水木さん:私は洗濯聡恊?魔オないので、
    時間が余るのですかね。
商家の嫁さん:ご迷惑をおかけしています。
    小浜には神戸・大阪・滋賀ナンバーが多かったですよ。
    

コメント (2)
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