北朝第3代崇光天皇(1334~1398)(在位1348~1351)の17歳時の第1皇子で、母は典侍庭田(源)資子(シシ)(?~1394)の栄仁親王(ヨシヒトシンノウ)(1351~1416)ですが、父崇光の皇太子は祖父光厳上皇の意向で叔父の直仁親王(ナオヒト)(1335~1398)でした。
以後もこの直仁親王の系統に皇位を継がせるために、栄仁親王は出家させられる予定になっていました。
深草北陵の制札は、後深草天皇から12人の持明院統の天皇名が並んでいます
栄仁親王の産まれた1351年は正平一統で、祖父光厳・大叔父光明・父崇光と直仁親王は奈良大和の賀名生(アノウ)に拉致され、その間に叔父後光厳(1338~1374)(在位1352~1371)が北朝4代目として即位するなど、北朝持明院統嫡流の栄仁親王には厳しい情勢が続きましたが、1368年にやっと親王宣下で栄仁と命名されています。
制札12人の最後は、南北朝も合体した後の戦国時代終わりの頃の天皇ですが、最後の最後に今回の栄仁親王墓の名もありました
1398年我が息子への皇位を望んでいた父崇光上皇が亡くなると、栄仁親王もあきらめて出家、持明院統の所領を足利義満(1358~1408)(将軍職1369~1395)の斡旋で後光厳孫にあたる後小松天皇と分け合って、以後現在まで続く伏見宮家初代となりました。
塀に囲まれた深草北陵の中には、お堂があるようです
御息所正親町三条治子(ミヤスンドコロオオギマチサンジョウハルコ)との間に、伏見宮家2代治仁王(ハルヒトオウ)(1370~1417)と第3代貞成親王(サダフサ)(1372~1456)をもうけ、この貞成親王の息子が第102代後花園天皇になって、今の天皇家に繋がっています。
墓は12帝陵の深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)とと同じ場所に有りました。
週2回JR奈良線の車内からこの陵を見ながら通勤していますが、塀の内部は見えません
返事
Toitenlabeeさん:マスクとメガネで、
綺麗な顔の大部分が覆われたイカですね。
確かに雨の日も風の日もほぼ毎週滋賀県に行ってますので、
西川貴教かダイアンかとも言われています。
そんなことあらへんわ