島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

100-1後小松天皇

2022-01-09 | 天皇陵巡り
 
 北朝5代後円融天皇(1358~1393)(在位1371~1382)の第1皇子で、母は内大臣三条公忠(キンタダ)の娘厳子(イツシ)の幹仁(モトヒト)は、父から譲位されて6歳にして北朝6代後小松天皇(ゴコマツ)(1377~1433)(在位1382~1412)として即位しました。
  写真は師団街道沿いの十二帝陵の石柱
 
 父後円融上皇が院政を敷きましたが、足利3代将軍義満(1358~1408)(在職1369~1395)の専制的な政治も進み、1392年南北朝合一も成って、南朝の第99代後亀山天皇(?~1424)(在位1383~1392)から三種の神器を受け取って、北朝6代から一応第100代後小松天皇となりました。
  写真は私が週に2回乗るJR奈良線沿い、降りるJR藤森駅の手前にある深草北陵(十二帝陵)です
 
 後円融上皇が没すると、義満は皇室の権威的な部分を後小松天皇には渡さずに自らが継承し、教科書でも有名な明国の使いに「日本国王」として認められたり、一説には天皇になろうとしたとも言われています。
 
 後宮の日野西資子(ヒノニシスケコ)(1384~1428)との間に後の第101代称光天皇(1401~1428)や小川宮(1404~1425)をもうけ、ほかにも5人以上の妃がいましたが、そのうちの一人の皇子が一休宗純(1394~1481)、あのとんちの一休さんと言われています。
 
 後小松天皇の治世はほぼ義満の天下の下でしたが、義満が死んでようやく束縛から解放された1412年、第1皇子称光天皇に譲位し院政を開始しましたが、今度はちょっと風変わりな息子と対立することも多く、後継者にも恵まれなかったので、とうとう北朝方では正統になる崇光系に第102代は譲り、院政を敷いたのちに亡くなりこの深草北陵(フカクサノキタノミササギ)に葬られました。
  これで100代まで行った天皇陵巡り、あと五分の一になりましたので、皆さんもう少しのご辛抱ですが、終わったら次は素晴らしいものが待っているという自信は皆無ですよ。

        返事
花水木さん:残しておくと、
    笑いを忘れなかったが、馬鹿なご先祖さんですね、と言われそう。
大雪男さん:こちらこそ今年もよろしく!
    安全第一で遊んでください!

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする