島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

58.花軍

2023-04-21 | 菓子たくさん

 明治19年(1886年)創業で、京都が本店の 仙太郎 まあまあ商売は上手そうで、デパートなどにも店が入ってる有名和菓子屋です。

 仙太郎の季節の和菓子「花軍(ハナイクサ)」、3月で私が辞めた病院の看護婦さんから貰いましたので、いつもの値段を書くのはやめておきますが、1箱9個入りです。

 平凡な小さめの饅頭の外観ですが、食べると上に乗ってる塩漬けした桜の香りが一瞬し、なかなか上品で、さすが京都のお菓子と言う感じはしました。

 桜もあっという間に散り、昨夜は一瞬クーラーも試しにつけたぐらいの暑さでしたが、貰った9個は桜が咲く前に、私が6個家内が3個と2日間で一瞬にして無くなりました。

  遅くなりましたが、ありがとう!!

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119-4光格天皇母大江磐代

2023-04-19 | 天皇陵巡り

 父は鳥取藩家老の家臣に過ぎない岩室常右衛門、母の身分は詳しく分かってないようですが、二人の間に産まれた「つる」は、医師になっていた父に連れられて9歳で上京、礼儀作法や教養全般の教えを受けて、宮中の女官に使えるようになりました。

  蘆山寺陵の参道を左に曲がらずまっすぐ、写真の竹垣の間を抜けると廬山寺墓地が有ります。

 閑院宮典仁親王(カンインノミヤスケヒト)(1733~1794)の妃となっていた成子内親王(フサコ)(1729~1771)の目にとまった「つる」は、侍女として宮家に仕えました。

そして成子内親王が体調も悪かったので、「つる」は典仁親王の側室としても仕えるまでになりました。

  写真のように河原町通りと盧山寺に挟まれた長細い廬山寺墓地には、塀に囲まれた立派な墓から、1坪もない菊の御紋が付いてるだけの墓まで、宮内庁治定の宮家の墓がたくさんありますし、他の公卿たちの墓も並んでいました。

 宮家に仕えて5年後に、成子内親王は亡くなりましたが、その3か月後に「つる」は祐宮(サチノミヤ)を、翌年には寛宮(ヒロノミヤ)を産み、以後もいずれも夭折しましたが3人の王子を産んでいますので、名前も大江磐代(オオエイワシロ)(1744~1812)と呼ばれるようになりました。

  真新しい 贈従一位大江磐代君御墓 と書かれた石柱が無ければ、私には見つけることが出来なかった、写真の小さな墓が今回の目的地です。

 その第1子の我が子祐宮が、もう亡くなっている成子内親王の形だけの養子となって、1779年には第119代光格天皇(1771~1840)(在位1779~1817)になってしまいました。

磐代は典仁親王が亡くなると出家し、聖護院門跡となっていた第2子寛宮の計らいで、聖護院近くの屋敷で静かに余生を送りました。

  写真のように正面から墓石をよく見ると、贈られた院号蓮上院が刻まれています。

 主人にあたる典仁親王が、明治になってからですが太上天皇の尊号が贈られ、盧山寺陵に葬られ、その陵内には妃の成子親王やたくさんの皇子女の墓もあって、宮内庁治定になっています。

 しかし天皇の実の母でありますが、いかんせん身分が低すぎたのか、側室の磐代の墓は、陵の中には置かれませんでした。

  写真のように磐代の墓を後ろから眺めますと、その向こうには廬山寺陵の白い壁が横たわっていて、主人の典仁親王(慶光天皇)の石塔の一部がやっと見えるぐらいです。周りには名もない皇孫子女の宮内庁治定の小さな墓も沢山ありましたが、磐代の墓は宮内庁治定でもありませんでした。

この辺りの事情をドラマにすると、韓国ドラマ?になりそうですね。

   いよいよ天皇陵巡りも残り5代だけになりました。

 次が決まってないので、ゆっくりやっていきたいのですが、あまりにも少なくなりました。

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119-3光格天皇父慶光天皇

2023-04-16 | 天皇陵巡り

 閑院宮典仁親王(カンインノミヤスケヒトシンノウ)(1733~1794)は第113代東山天皇の孫にあたり、世襲親王家の閑院宮第2代当主でした。

  私の母校の目と鼻の先にある盧山寺境内の南側に、盧山寺陵に行く参道が始まっていました。

  その参道を左に曲がって進みますが、右側が賑やかな河原町通とは思えない静寂さが有ります。学生時代は近所なのに、恥ずかしながら全く知らない所でしたね。

 典仁親王は伯父にあたる第114代中御門天皇の第5皇女成子内親王(フサコ)(1729~1771)を妃にむかえましたが、その妃の侍女であった岩室(大江)磐代(イワムロイワシロ)(1744~1812)を寵愛し5人の王子をもうけています。

 その王子たちの一人、第6王子祐宮(サチノミヤ)が第119代光格天皇(1771~1840)(在位1779~1817)になってしまいました。

  写真は盧山寺陵正面で、急に開けた感じで、ガランとした内部も丸見えの御陵です。

 息子の光格天皇は、父典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたいと思いましたが、時の老中松平定信に反対され、断念せざるを得ませんでした。

これが前々回に紹介した1788年の尊号一件です。

 典仁親王は尊号を得られないまま亡くなりましたが、その90年後に玄孫(ヤシャゴ)である第122代明治天皇によって、明治17年(1884年)に慶光天皇(キョウコウ)を追贈され、この盧山寺陵(ロザンジノミササギ)(上京区河原町広小路上ル)に葬られました。

  陵正面まっすぐ奥にある写真の石塔がそれだと思います。まだ出来て140年ぐらいでしょうね。

 盧山寺陵の制札には、慶光天皇妃成子内親王墓を始め沢山の名前が並んでいますが、次期光格天皇を産んだ大江磐代の名前は有りませんので、次回に。

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桜も終わり、高齢者講習も終わりました

2023-04-14 | ノンジャンル

 老人ホームの中庭の枝垂れ桜も今週で終わり、花水木が満開の季節になりました。

阪神も巨人に問題は有りますが何とか勝ち越して幸せですが、怖くて見続けることが出来ない試合ばかりでした。

 今年の誕生日で75歳後期高齢者に丁度なる私宛に、誕生日半年前の1月に、認知機能検査と高齢者講習を受けて下さいと「認知機能検査と運転免許更新手続きのご案内」のこのハガキが届いていましたので、休みが多くなった4月に予約をしておきました。

 前回70歳は免許更新前に高齢者講習だけだったのですが、今回は認知機能検査も有るので、ちょっと緊張とうっとおしさ、そして7500円も取られますが、場所が家の隣の窓から見える教習所なので、それだけが救いです。

 前日に確認の電話まであったのですが、1時間間違って早くに行ってしまい、もう一度家まで帰りました。

認知機能検査受けるまでもなく、認知症になってますね。

 認知機能検査はライオンとか耳とかの4つのイラストが描いてある表を4枚、「ライオンは獣ですね」などの説明を受けながら覚えていきます。(結構必死に覚えましたが、4枚目ぐらいになると、私の集中力が落ちてるのがはっきり自覚出来ました。)

そして簡単な数字のチェックを受けて、(その間も勿論忘れないようイラストを思い出していましたが) その後に16枚の絵を全て思い出して書くのですが、10枚で一旦途切れ、何とかあと4つは思い出しましたが、二つは書けませんでした。

続いて「獣はなに?」「花はなに?」とヒントが書いてあって、また16枚の絵の名前を書きます。それは簡単にすべて最初書けなかった物も書けました。

結局「フライパン」と「バラ」を最初には書けなかったのです。満点でないことに落ち込みました。

最後は今何年・何月・何日・何曜日・何時何分を書くのですが、何日がちょっと自信がなかったです。(合ってましたが)。

 続いて目の検査ですが、夜間視力が全くダメで、「夜間の運転は控えたほうが良いでしょう」と言われてしまいました。

 最後の実地運転は、前に進む運転ばかりだったので、何と言うことなくクリアしましたので、この「認知症のおそれがある基準には該当しませんでした」と言う「認定認知症検査結果通知表と高齢者講習修了証明書」を貰い、半日の講習修了、やや疲れて帰途1分の道を帰りました。

 3年後にまた同じ検査を受けるのですが、違反や事故をすると受かりにくい実地運転試験(講習ではなく試験だそうです)もあるようなので、免許返納も考えておきます。

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119-2光格天皇皇后欣子内親王

2023-04-11 | 天皇陵巡り

 ショッピングモール内のケーキ屋さんで頼んだ苺シリーズ、家内は苺のショートケーキ、私はもっと柔らかい苺のムースです。

今回も後月輪陵(ノチノツキノワノミササギ)です。

 第118代桃園天皇の唯一の子である第1皇女欣子内親王(ヨシコナイシンノウ)(1779~1846)の母は女御の近衛維子(コノエコレコ)(1760~1783)ですが、父天皇は22歳で母も24歳で亡くなっています。

  写真の門は月輪陵と後月輪陵に共通と言うことに成ります。

 傍系から迎えられた第119代光格天皇(1771~1840)(在位1779~1819)に、予定通り1794年に入内し第3・7皇子を産んだ欣子内親王ですが、二皇子とも夭折してしまい、本家筋の第114代中御門天皇系の血は途切れてしまいました。

  塀の中を覗いても月輪陵と後月輪陵を分ける境は無いようです。

 典侍勧修寺婧子(カジュウジタダコ)(1780~1843)が産んだ第4皇子寛宮(ユタノミヤ)を実子として公称し、その子が第120代仁孝天皇(1800~1846)(在位1817~1846)となったので、欣子内親王は皇太后となり、夫光格上皇も見送った後に68歳で亡くなり、後月輪陵(東山区今熊野泉山町)に葬られています。

  制札には光格天皇皇后欣子内親王後月輪陵とありましたが、次の天皇を産んだ実母勧修寺婧子の名は有りません。(内親王に遠慮したのか、天皇母でしたが後月輪陵には入れず、泉涌寺内の雲龍院に光格天皇後宮東京極院藤原婧子として墓が有ります。新型コロナで閉鎖されてたこともあって、又私も欣子内親王に遠慮して、そこには行けませんでした。)

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