父は鳥取藩家老の家臣に過ぎない岩室常右衛門、母の身分は詳しく分かってないようですが、二人の間に産まれた「つる」は、医師になっていた父に連れられて9歳で上京、礼儀作法や教養全般の教えを受けて、宮中の女官に使えるようになりました。
蘆山寺陵の参道を左に曲がらずまっすぐ、写真の竹垣の間を抜けると廬山寺墓地が有ります。
閑院宮典仁親王(カンインノミヤスケヒト)(1733~1794)の妃となっていた成子内親王(フサコ)(1729~1771)の目にとまった「つる」は、侍女として宮家に仕えました。
そして成子内親王が体調も悪かったので、「つる」は典仁親王の側室としても仕えるまでになりました。
写真のように河原町通りと盧山寺に挟まれた長細い廬山寺墓地には、塀に囲まれた立派な墓から、1坪もない菊の御紋が付いてるだけの墓まで、宮内庁治定の宮家の墓がたくさんありますし、他の公卿たちの墓も並んでいました。
宮家に仕えて5年後に、成子内親王は亡くなりましたが、その3か月後に「つる」は祐宮(サチノミヤ)を、翌年には寛宮(ヒロノミヤ)を産み、以後もいずれも夭折しましたが3人の王子を産んでいますので、名前も大江磐代(オオエイワシロ)(1744~1812)と呼ばれるようになりました。
真新しい 贈従一位大江磐代君御墓 と書かれた石柱が無ければ、私には見つけることが出来なかった、写真の小さな墓が今回の目的地です。
その第1子の我が子祐宮が、もう亡くなっている成子内親王の形だけの養子となって、1779年には第119代光格天皇(1771~1840)(在位1779~1817)になってしまいました。
磐代は典仁親王が亡くなると出家し、聖護院門跡となっていた第2子寛宮の計らいで、聖護院近くの屋敷で静かに余生を送りました。
写真のように正面から墓石をよく見ると、贈られた院号蓮上院が刻まれています。
主人にあたる典仁親王が、明治になってからですが太上天皇の尊号が贈られ、盧山寺陵に葬られ、その陵内には妃の成子親王やたくさんの皇子女の墓もあって、宮内庁治定になっています。
しかし天皇の実の母でありますが、いかんせん身分が低すぎたのか、側室の磐代の墓は、陵の中には置かれませんでした。
写真のように磐代の墓を後ろから眺めますと、その向こうには廬山寺陵の白い壁が横たわっていて、主人の典仁親王(慶光天皇)の石塔の一部がやっと見えるぐらいです。周りには名もない皇孫子女の宮内庁治定の小さな墓も沢山ありましたが、磐代の墓は宮内庁治定でもありませんでした。
この辺りの事情をドラマにすると、韓国ドラマ?になりそうですね。
いよいよ天皇陵巡りも残り5代だけになりました。
次が決まってないので、ゆっくりやっていきたいのですが、あまりにも少なくなりました。