島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

119-1光格天皇

2023-04-08 | 天皇陵巡り

 久しぶりに本格仏料理を食べた最後のデザート写真です。

そして久しぶりの天皇陵巡りですが、スイーツ写真付きの月輪陵ではなく、今回は後月輪陵(ノチノツキノワノミササギ)ですが、実は月輪陵と後月輪陵は同じ場所に有りますので、写真としてはこのスイーツ写真以外は、あまり変わり映えしません。

 1771年に閑院宮典仁親王(カンインノミヤスケヒト)(1733~1794)の第6王子として産まれた幼名祐宮(サチノミヤ)、その母は鳥取県倉吉から町医者として上京した父と一緒に京に上った岩室(大江)磐代(イワムロイワシロ)(1744~1813)です。

 裕宮は1歳にて聖護院宮の後継者として出家することを期待されていました。しかし、1779年に第118代後桃園が22歳の若さで後継皇子が無いまま亡くなり、急遽世襲親王家から誰かを選ばなければならなくなったので、後桃園天皇唯一の皇女で1歳にもならない欣子内親王(ヨシコ)(1779~1846)を、後日皇后にするのに丁度良い祐宮を養子に迎えて即位させ、9歳の新帝第119代光格天皇(コウカク)(1771~1840)(在位1779~1817)が生まれました。

  後月輪陵は月輪陵の後ろにあると言うことなので、写真の塀の中を覗き見て、右後方の辺りが光格天皇の石塔だとは思いますが、わかりません。

 今なら愛子様の相手に、いたのなら明治天皇の弟君の子孫の男子を迎えて、天皇にするという策なので、やや強引です。

 前天皇と新天皇が7親等も離れていると言う、綱渡り的な世襲によって生まれた天皇ですので、もちろん光格天皇の父親は天皇ではありません。

 この為、1788年尊号一件(ソンゴウイッケン)と言う事件が起こり、これが幕末の尊王攘夷思想のもとになっています。

 河原町荒神口を西に入った、私の大学母校と目と鼻の先にある清荒神口護浄院(キヨシコウジンゴジョウイン)の境内に、写真の光格天皇胞衣(エナ)(胎盤のこと)塚が有ります。

滋賀県高島に第26代継体天皇の胞衣塚があって以来、あまり天皇の胞衣塚は知りません(灰塚や髪歯塚は有りますが)が、これが残ったのは、産まれた時の光格天皇の身分が高くなかったせいかも知れません。

 陵印は月輪陵の物と思ってましたが、後月輪陵とも彫ってあって、共通の印でしたね。

    尊号一件;

 父に太上天皇の尊号を贈ろうとした光格天皇ですが、時の老中松平定信(1759~1829)に拒否されました。

その時の徳川将軍は第11代家斉(イエナリ)(1773~1841)(在職1787~1837)で、家斉自身も徳川御三家から将軍になった人で、当然家斉の父は将軍ではありません。

父を大御所にしたかった家斉ですので、光格天皇の要望に好意的だったようですが、将軍になっても良かった家柄の松平定信が太上天皇案を拒否したので、自然自分の父の大御所擁立案もダメになりました。

これもあって、家斉は定信を老中から罷免したので、寛政の改革は頓挫してしまいましたし、尊王論が急速に世に普及し、高山彦九郎(京都三条京阪に御所を遥拝する像が有ります)の割腹事件も起こっています。

 

 光格天皇は1794年には予定通り先帝の遺児欣子内親王を皇后にし、欣子内親王は2皇子を産みましたが、二人とも夭折していますので、典侍勧修寺婧子(カジュウジタダコ)(1780~1843)との間の恵仁親王(アヤヒト)(1800~1846)に1817年に譲位しています。

以後は院政を敷いて70歳で亡くなり、後月輪陵(東山区今熊野泉山町)に葬られ、写真制札の13番目にその名が有りました。   

コメント (4)
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