カンヌ国際映画祭で、上映中に多くの観客が席を立った。
そんなニュースは珍しい話じゃない。
「ハウス・ジャック・ビルト」はマット・ディロン演じる連続殺人鬼ジャックの凶行を五章構成で描いており、およそ良識や倫理からかけ離れたことばかり起きる。
当然バイオレンスやグロテスクな描写も多い。
しかし本作は問題作かも知れないが、同時にいつもにも増してまともな面が表出しているように感じられる。
ジャックが語る連続殺人エピソードはどれも本当にヒドい。
ジャックは嬉々として、凶行の数々を芸術家が作品を創り上げるプロセスになぞらえてみせるが、その論法はただただ自分にのみ都合がよく、正当化しようとしている言い訳に過ぎない。
「ヴァージ」という男(ダンテの「神曲」の登場人物)が批判的な聞き手の役を務めるのだが、そのヴァージもついジャックの論法に惹き込まれてしまうので、“まとも”という尺度で計るにはなんとも頼りない。
では一体本作のどこが“まとも”なのか?
実は、主人公ジャックの悪逆非道を描きながら「愚かな人間をサディスティックに描いてきた自分自身」を皮肉たっぷりに笑い飛ばしている。
ジャックのエピソードがヒドければヒドいほど、本作はブラックコメディ色を強め、ジャックとヴァージの禅問答は身も蓋もないバカバカしさを帯びてくる。
観客は、「ひねくれ者の映画監督の自嘲ギャグかよ」とうそぶいて、自分を「安全圏」に置くこともできる。
ただし、矛先を向けているのは作者自身だけではない。
頭の片隅で残酷な妄想をもてあそび、世の中に垂れ流されている暴力をエンタメとして消費し、現実世界の悪徳に無力で無関心な大衆ではないと言い切れる清廉な人間が、果たしてこの世に存在する?
ジャックはそんな暗い大衆心理を具現化するかのように、あの手この手で露悪の道をひた走る。
そんな無頼な姿にほんの少しでも共感や憧憬の念を感じてしまったら、観客はまんまと作者の手の内に墜ちる。
本作に充溢している「オレは愚かでバカだが、お前たちはどうだ?」とでも言いたげな全方位的嘲笑は、いつもにも増して知的な刺激に満ちている。
そんなニュースは珍しい話じゃない。
「ハウス・ジャック・ビルト」はマット・ディロン演じる連続殺人鬼ジャックの凶行を五章構成で描いており、およそ良識や倫理からかけ離れたことばかり起きる。
当然バイオレンスやグロテスクな描写も多い。
しかし本作は問題作かも知れないが、同時にいつもにも増してまともな面が表出しているように感じられる。
ジャックが語る連続殺人エピソードはどれも本当にヒドい。
ジャックは嬉々として、凶行の数々を芸術家が作品を創り上げるプロセスになぞらえてみせるが、その論法はただただ自分にのみ都合がよく、正当化しようとしている言い訳に過ぎない。
「ヴァージ」という男(ダンテの「神曲」の登場人物)が批判的な聞き手の役を務めるのだが、そのヴァージもついジャックの論法に惹き込まれてしまうので、“まとも”という尺度で計るにはなんとも頼りない。
では一体本作のどこが“まとも”なのか?
実は、主人公ジャックの悪逆非道を描きながら「愚かな人間をサディスティックに描いてきた自分自身」を皮肉たっぷりに笑い飛ばしている。
ジャックのエピソードがヒドければヒドいほど、本作はブラックコメディ色を強め、ジャックとヴァージの禅問答は身も蓋もないバカバカしさを帯びてくる。
観客は、「ひねくれ者の映画監督の自嘲ギャグかよ」とうそぶいて、自分を「安全圏」に置くこともできる。
ただし、矛先を向けているのは作者自身だけではない。
頭の片隅で残酷な妄想をもてあそび、世の中に垂れ流されている暴力をエンタメとして消費し、現実世界の悪徳に無力で無関心な大衆ではないと言い切れる清廉な人間が、果たしてこの世に存在する?
ジャックはそんな暗い大衆心理を具現化するかのように、あの手この手で露悪の道をひた走る。
そんな無頼な姿にほんの少しでも共感や憧憬の念を感じてしまったら、観客はまんまと作者の手の内に墜ちる。
本作に充溢している「オレは愚かでバカだが、お前たちはどうだ?」とでも言いたげな全方位的嘲笑は、いつもにも増して知的な刺激に満ちている。