知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『日本の城郭 2(古代山城・麴智城の不思議)』ー古代山城は、朝鮮式12ヶ所、中国式1ヶ所、神籠石式 16ヶ所で合計29ヶ所ー

2019-02-03 18:48:47 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 2(古代山城・麴智城の不思議)』

『古代山城は、朝鮮式12ヶ所、中国式1ヶ所、神籠石式 16ヶ所で合計29ヶ所』

 明治大学アカデミーホールで開催されたシンポジウム『鞠智城の終焉と平安時代~古代山城の後退~』を聴講しました。 学者先生の方々が、この忘れられた城の調査・研究に、どんどん、ハマっていく様子が、パネルディスカッションを通してよく判りました。『日本の城郭 3(古代山城・麴智城の不思議)』

 

 山城のことですが、鎌倉時代以降のいわゆる中世・近世の山城に、自分は、夢中になっていましたが、今回は古代山城と聞いて山城のルーツを知りたいと『おっとり刀』で参加しました。 古代山城ネットワークの構築コンセプトが、鎌倉時代以降、中世・近世の、山城の構築コンセプトと、全く異なることに、驚くと同時に、不勉強が解かりました。

 

 先ずはウェブ情報です。

日本列島には3万とも4万ともいわれる城跡が存在する。 それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。 わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中世は、まさに大築城時代であった。

 

日本の山城には、次の3種類がある。

 

古代山城 

飛鳥時代から奈良時代畿内から九州北部にかけて築かれた。

 

中世山城 

中世・戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。

 

近世山城 

安土桃山時代後期から江戸初期までに築かれた。

 

この古代山城ネットワークは、外国・唐の侵略に備えたものと判り『目から鱗…』でした。 その後の、中世山城も、近世山城も『国内の分割された領土の争奪戦』に備えたもので、中には詰め城機能もあります。

 

むしろ、古代山城ネットワークは、国際的な世界史の流れの中での国防ネットワークとして組まれたものでした。 

 

古代山城は、朝鮮式12ヶ所、中国式1ヶ所、神籠石式 16ヶ所で合計29ヶ所。 因みに、鞠智城は、朝鮮式山城、

 

中世・近世に築城された城は、3~4万ありますが、したがって日本の城の殆どが山城と、、平山城と言えます。 (平城は、名古屋城・二条城・駿府城・広島城など

 

この鞠智城は、東アジア情勢が緊迫する7世紀後半、朝鮮半島南西部に、おいて、開戦した白村江の戦い(663)に敗れた大和朝廷が、唐・新羅連合軍の日本への侵攻に備えて、西日本各地に防衛拠点として構築した古代山城の一つで、現在確認されている古代山城の中でも最南端に位置しています。

  巨大帝国、隋の1次~4次高句麗遠征と、唐の1次~3次高句麗遠征などを知った日本のできた防衛戦略だったのでしょう。 特に、隋はこの4回の遠征と大運河の構築費用の負担で疲弊し短期王朝に終わったようです。

 7世紀後半に築造された古代山城は、その大半が8世紀初頭までに役割を終え、廃城となっているが、この鞠智城は、10世紀半ばまで、存続が確認されており、この存続理由が、何であったかと、今回のパネルディカッションでも取り上げられました。   理由は山城として特別大きく、惣構えの周囲9kmあり、平らで広く、建物跡も多く兵站基地を兼ねたようです。

  正確な地図や航空写真のない時代に、唐・新羅連合軍の侵攻ルートを想定して、九州北部を主力に、大宰府の守りとして、また、山陽道と愛媛県・香川県にも古代山城を縄張り・構築し、大津京の守りとしたことにも驚きでした。

  山城への好奇心は、隋・唐の合計7回の攻めに耐えた、高句麗国防の城塞兵站ネットワークと、遠く離れた南米インカのマチュピチュを中心とした山岳山城の城塞兵站ネットワークに思いを馳せます。

(記事投稿日:2017/02/05、最終更新日:2019/02/01、#063)

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