『日本の城郭 3(堅城大阪城と攻めの真田丸)』
『幸村は真田丸(真田出城)から「赤備え」の揃いの鎧で家康の本陣を直撃!』
ウキペデイアから引用
『諸国古城之図』摂津 真田丸(広島県立中央図書館)蔵。 北(大阪城本丸方向)を上にして表示。
1615年、大坂の陣から400年、研究も進み、「石山」本願寺の呼称も「大阪城に由来」と表示。の説が、先日の日経の文化欄にありました。
大阪城は1583年、秀吉が浄土真宗の本拠地、石山本願寺の跡地に築いた。 しかし、石山本願寺の「石山」の呼称登場は、江戸期の文献からで、もともと大阪本願寺と呼ばれていた。
大阪城の別称としての「石山」の由来は;
① 博多の商人、神谷宗湛の日記に、秀頼に大阪城で会ったことが記され「大阪石山城にて」とある。
② イエスズ会の宣教師、ルイス・フロイスが大阪城を「大小の様々な石を山のように集めた」と語った。(東西の城建築の違い、東は曲線の「野面積み」の石垣、西は垂直の城の壁)
大阪城は平地に本格的な石垣を積み上げた最初の城であった。 豊臣大阪城の石垣は自然石をあまり加工せずに積み上げた「野面積み」で徳川大阪城の石垣(現在の石垣)は加工石の石垣であった。 この「野面積み」がフロイスには「石の山のように」見えた。 古代ローマ時代にも「野面積み」の城らしい城はなく、あったのは北イングランドのハドリアヌスの「長城」や、スコットランドのアントニウスの「長城」くらいであった。
城を持たないバイキングの砦・集落の守りの「囲い」は「野面積み」であった。
堅固な大阪城の堀のスケールも大きく、最近の発掘で、南北240m、幅24m、深さ5mで、二の丸西側の城門「大手口」を逆コの字で囲んでいたと判った。
大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川と大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に「空堀」を設けたのみで、防御が手薄であった。そこで幸村は、徳川との戦いに備えて、大阪城の弱点である南側で「防御」を高める備えとして、真田丸(真田曲輪・真田出城)を築いたと考えられてきた。
一般「 ・・曲輪も・・丸も」は城の惣構・総曲輪・総郭の中の構造物。これに対し、新たな見解を打ち出したのが、奈良大学の千田嘉博学長。「真田丸」 は独立した一城郭であり『攻撃』のために築かれたはず」と説く。その根拠は、当時、大阪城と真田丸の間には、大きな谷が広がっており大阪城の南部は巨大な谷が東西に走る天然の要害であった。 「この谷、現在は谷と呼ばれるほど深くはない。 また真田丸の所在地が、現在の大師山か清水谷の二説があるので、この確定が急がれる」。 が、真田丸は孤立無援の城郭で、あえてこの地に築いたのは敵の攻撃を集中させ、反撃するのが目的だった。
真田丸は「真田丸ではなく、真田出城」であった。
野戦を主張した幸村に対し、秀頼、淀殿、豊臣恩顧の諸将(一部を除く)の殆どが、堅城の大阪石山城を頼り、籠城戦に決まった。
幸村は、真田丸(真田出城)を築きながら、「赤備え」の鎧のユニフォームで、家康の本陣を直撃する以外に勝ちはないと考えていたのでしょう。
幸村が一番輝いたのは,丸裸の、すでに堅城でない大阪城を出て、討死覚悟で「茶臼山に陣を張り」その茶臼山で、3,000の部隊で15,000の松平隊を破り、家康本陣に迫り、家康をして二度も「自決」を覚悟させた戦いでした。
この輝きの背景には、幸村は、大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは『右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・攻撃させるというものだった』とされている。 『家康はこのような危険な最前線の茶臼山に陣を張った幸村以上の『野戦』の達人でもありました。』
後に、家康が「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物である」と幸村を評した。 作り話でしょうがやはり信じたい『判官びいき』です。
徳川方にも「赤備え」井伊直孝がいました。 真田隊も井伊隊も甲斐武田軍団の「赤備え」に繋がります。 当時「黒備え」もあり、 織田家の親衛隊である黒母衣衆、と伊達政宗の具足を黒の「仙台胴」でした。現在のユニフォームの「色・柄備え」も昔の武具の「色備え」も敵味方の区別のためでした。 ただ一色の「赤備え」も「黒備え」も敵を威圧もできます。
(20150801纏め、2019205改 #065)