『日本の城郭 8(小田原城の支城・三島山中城の障子堀と畝堀は実戦的か』
—山中城俯瞰(小田原城への進軍を止めるために東海道を総構えの中を)―
『障子堀』
『畝堀』
障子堀と畝堀、またはそのどちらでも、があった城跡は、今まで発掘されたのは14ヶ所。 古代・中世・近世に、日本の城は、3-4万構築された。 この3-4万の 99% 山城の説もある。 障子堀と畝堀は地形上やむを得ない場合の縄張りであった。
今回の『梅雨の高温多湿』の中での海抜580mの山城散策で気づいたことは、山城は、急峻な独立峰または急峻な尾根に石垣無して、本来構築された。 最初の石垣の山城は信長の安土城、関東での最初の石垣の山城は、 信長を真似た秀吉の石垣山一夜城であった。 千葉県の久留里城は、『Yの字』の急峻な尾根に『堀切、8ヶ所の防御』で構築され、守りに強かった。
山中城には、急峻な尾根が少なく、『堀切』に代えて『障子堀・畝堀』が空堀の変形として構築された。
山中城はブーメランのような「Uの字」の形の惣構えの縄張りで、それ程急峻ではない尾根に構築されている。 惣構えの総延長は約6kmに伸びきっており、且つ東海道を挟んだ反対側・南側の『すりばち曲輪と岱崎出丸』は秀吉軍を迎えた時は未完成であった。 東海道を山中城内、を通し、小田原城に進軍する秀吉軍を本丸側と曲輪側で挟撃できるユニークな縄張りの築城も間に合わなかった。 4千の守備では城攻めの天才秀吉の軍7万の攻撃で半日で落城した。
防御に効率のよい、縄張りは山城での比較ではないが、平城・平山城と、ある程度の比較はできる。 ベストは円形・楕円形、続いて正方形の順(五稜郭は大砲時代のもので、且つ西洋式で別カテゴリ)。 久留里城は『点と線(に堀切)』の防御、山中城は『面』の防御であった。 信長の山城は、独立峰に築城。
江戸城は、ほぼ円形、惣構えの総延長は約18km、大坂城は、ほぼ正方形、惣構えの総延長は、約8km、夫々、江戸城は、約40万で守る規模の縄張りで、大阪城は約20万で守った縄張りであった。
山中城の惣構えは、防御ラインの兵士配置の密度を考えると『中世最末期の山城としては・・・』と縄張りが気になった。 素晴らしい、後北条氏の支城制ネットワーク(37拠点)構想から、インカの未発掘の山城拠点のネットワークへと好奇心と夢が広がる。
(20170708纏め)