知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『日本の城郭 8(小田原城の支城・三島山中城の障子堀と畝堀は実戦的か』—山中城俯瞰(小田原城への進軍を止めるために東海道を総構えの中を)― 

2019-02-26 10:06:47 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 8(小田原城の支城・三島山中城の障子堀と畝堀は実戦的か』

—山中城俯瞰(小田原城への進軍を止めるために東海道を総構えの中を)― 

  

 

 

『障子堀』

 

 

『畝堀』

 

障子堀と畝堀、またはそのどちらでも、があった城跡は、今まで発掘されたのは14ヶ所。 古代・中世・近世に、日本の城は、3-4万構築された。       この3-4万の 99 山城の説もある。 障子堀と畝堀は地形上やむを得ない場合の縄張りであった。 

 

今回の『梅雨の高温多湿』の中での海抜580mの山城散策で気づいたことは、山城は、急峻な独立峰または急峻な尾根に石垣無して、本来構築された。 最初の石垣の山城は信長の安土城、関東での最初の石垣の山城は、 信長を真似た秀吉の石垣山一夜城であった。 千葉県の久留里城は、『Yの字』の急峻な尾根に『堀切、8ヶ所の防御』で構築され、守りに強かった。

 

山中城には、急峻な尾根が少なく、『堀切』に代えて『障子堀・畝堀』が空堀の変形として構築された。 

 

山中城はブーメランのような「Uの字」の形の惣構えの縄張りで、それ程急峻ではない尾根に構築されている。 惣構えの総延長は約6kmに伸びきっており、且つ東海道を挟んだ反対側・南側の『すりばち曲輪と岱崎出丸』は秀吉軍を迎えた時は未完成であった。 東海道を山中城内、を通し、小田原城に進軍する秀吉軍を本丸側と曲輪側で挟撃できるユニークな縄張りの築城も間に合わなかった。 4千の守備では城攻めの天才秀吉の軍7万の攻撃で半日で落城した。 

 

防御に効率のよい、縄張りは山城での比較ではないが、平城・平山城と、ある程度の比較はでき。 ベストは円形・楕円形、続いて正方形の順(五稜郭は大砲時代のもので、且つ西洋式で別カテゴリ)。  久留里城は『点と線(に堀切)』の防御、山中城は『面』の防御であった。 信長の山城は、独立峰に築城。

 

江戸城は、ほぼ円形、惣構えの総延長は約18km、大坂城は、ほぼ正方形、惣構えの総延長は、約8km、夫々、江戸城は、約40万で守る規模の縄張りで、大阪城は約20万で守った縄張りであった。 

 

山中城の惣構えは、防御ラインの兵士配置の密度を考えると『中世最末期の山城としては・・・』と縄張りが気になった。 素晴らしい、後北条氏の支城制ネットワーク(37拠点)構想から、インカの未発掘の山城拠点のネットワークへと好奇心と夢が広がる。

              (20170708纏め)                   

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『真田丸は、真田出丸か、、真田出城か?(調べて・解かったこと)』ー江戸時代初期の絵図には真田出丸・丸馬出とあり、その後真田丸も混在―

2019-02-26 07:27:33 | 城・城郭・城塞

『真田丸は、真田出丸か、、真田出城か?(調べて・解かったこと)』

ー江戸時代初期の絵図には真田出丸・丸馬出とあり、その後真田丸も混在―

 

『真田丸』の『丸』は船名につく『丸』ではなく、城の中枢の魔(災難・戦乱・火災)除けを願って、区画する、曲がりくねった防御構造物、郭・曲輪『輪=囲う』に、魔を忌避すると言われる『・・丸』と名付けられた。 

 

大河ドラマ『真田丸』のスタート直前に、なぜか真田丸出帆!と、威勢をつけていました。 

 

以前『NHKの歴史秘話ヒストリア 幻の要塞真田丸の謎に科学のメス迫る。 驚きの規模』を見ました。 タイトル・内容ともに、ここにも力みを感じました。 それ以来、また『真田丸』に思いを巡らせていました。

 

そんなところに、先日917日の日経文化欄で見つけました『真田丸のナゾ、次々に新見解』(二つとも出丸・出城の見解)を抜粋しますと; 

 

❶広島浅野文庫諸国古城之図摂津 真田丸からの国交省国土地理院、坂井尚登技官の新見解は;

 

日本陸軍が制作した地図と、その後の米軍の空撮写真で、広島の浅野藩に伝わる江戸時代初めに描かれた『摂津 真田丸』と照らし合わせた結果;

 

真田丸の規模は、東西280m、南北270mの正方形の左上を斜めに切り取った、ほぼ五角形で、大坂城と真田丸は、幅100m200mの自然の谷で分断されていた。 真田丸は真田出丸(出城)であった。

 

この出丸は冬の陣終了後、まもなく破却された。しかし信繁の活躍が江戸時代以降、軍記物・時代劇・まんが・アニメ等を通して脚色され、真田幸村としてのヒーロー像を語る上で、真田丸は欠かせない要素になっている。

 

通例によると所在地は、大阪市天王寺区にある三光神社(現・宰相山)だった事が多い。 実際に周囲には『真田山』を冠する地名や学校名が多く見られる。

 

しかし近年の研究では、神社より西側 の大阪明星学院付近である事が指摘されている。

 

『真田丸』の『丸』は船名につく『丸』ではなく、城の中枢の魔(災難・戦乱・明星学院の位置は、真田山よりかなり大坂城寄りであるが、それでも大坂城『真田出丸』は惣構え(外堀)からは、200m以上はあり、従って『出丸』です。

 

絵図は下記の極秘諸国城図の『大坂 真田丸』と、ほぼ同じです。

 

❷松江歴史館の極秘諸国城図の『大坂 真田丸』からの奈良大学の千田嘉博学長の見解は;

 

『摂津 真田丸』以上に詳しい真田丸の上記の絵図(松江市歴史館所蔵)が、今年発見された。 1,690年頃、大阪の陣から70数年後に描かれたもの。

 

『摂津 真田丸』との最大の相違は、真田丸の南側の堀を『惣構堀』と記載しており、これで真田丸の全体像を断定できた。 真田丸は本来、大阪城の防御の薄い南側を守る出丸であった。

 

大坂の陣の直後の江戸時代初期の絵図には真田出丸・丸馬出とあり、その後、江戸時代中期以降の絵図には、真田丸・真田出丸・丸馬出が混在した。

 

『真田丸』は、江戸時代の軍記物で、一般に親しまれてきた。 最近の城ブームと日本城郭研究が進み、城郭の分類・機能等の再確認の動きの中での、『丸』と『出丸』機能の比較検証ではないでしょうか、私見です。

                        (20160920纏め、20190226改 #078)

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