知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『日本の城郭 7(大阪城には、第二・第三の真田丸?!)』ー茶臼山(陣地で一部破壊され、古墳要件満たせず)も御勝山も堅固な陣地ー

2019-02-07 23:52:31 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 7(大阪城には、第二・第三の真田丸?!)』

『茶臼山(陣地で一部破壊され、古墳要件満たせず)も御勝山も堅固な陣地』

 

歴史ドラマ・ドキュメンタリー番組全盛期とは言え、この表題のキャッチフレーです。 先日、NHK総合テレビの歴史秘話ヒストリア 緊急報告“真田丸”を掘るで、『第二・第三の真田丸』という表現で、学術調査を指揮された奈良大学教授の千田嘉博先生から紹介されていた。

 

『真田丸』は大坂の陣の後の江戸時代初期の絵図には、真田出丸・丸馬出とあり、その後、江戸時代中期以降 の絵図には、真田丸・真田出丸・丸馬出が混在した(丸馬出は真田出丸の一部)。  私見ですが真田丸は、江戸時代中期・後期の軍記物・漫画に登場、そのまま市民権を得た。 今では先生方も使う。 言語は生きていて成長・変化するが、定義も生きていて、成長・変化するのか。

 

『丸馬出』の元祖は、城も持たず、館で戦国時代を戦いぬいた武田流軍学から。

 下の地図は『豊臣後期(17世紀初頭)の古地理図の模写』

 

 

この中の茶臼山、御勝山、大阪城の、位置関係が明確です。 この御勝山、大坂の陣以前は岡山と呼ばれた古墳。 大坂冬の陣では、茶臼山に家康が、岡山に秀忠が陣を張って徳川方の勝利、『真田出丸』は、破壊された。 6ヶ月後の夏の陣では、野戦以外に戦う術のなかった豊臣方が茶臼山に主力を置いて、茶臼山―岡山(御勝山)間に防衛ラインを引いて、勝機があると信じていた。  戦上手・野戦上手の幸村が、開戦前から『死に場所を得た』との説は半信半疑。

 

上記NHK秘話のキーワードの抜粋です。

冬の陣のあと、徳川軍が壊してしまったと、もうあとは残っていないんじゃないかと思われてきたんですよね。それで今まで発掘は行われてこなかったんです。今まで大坂夏の陣というのは野外で両軍が戦ったというイメージだったんですけども、実は第二、第三の真田丸が大坂方の戦力の要になっていたんです。

 

茶臼山(陣地で一部破壊され、古墳要件満たせず)も御勝山も夫々海抜27mと12m、当時、大半を堀に囲まれた古墳で、野戦の陣地には最適であった。

冬の陣では、徳川方の陣地に、夏の陣では豊臣方が陣地を築いた。 特筆すべきは、真田幸村はこの二つの陣地に『丸馬出』を構築。 描かれた古図がある。 これが冬の陣の徳川軍陣地と異なり、この縄張りが『真田丸』と誤解させる。

 

それでも、幸村指揮の夏の陣の豊臣方の(両軍の総石高はさて置き)各論での敗因は; 惣濠(内・外堀)を埋められては、堅城大坂城に頼れず、更に、

❶幸村を総大将にせず、総指揮をとらせず

➋初戦の大野治長が五人衆に比べ、全くの力不足、初戦で躓き

❸天王寺の戦いでは濃霧で真田隊が遅れ、これで五人衆の二人が戦死

❹秀頼の出馬催促に真田大助が大阪城に到着、これを野戦で敗戦と誤解。

歴史にも、ゴルフにも、『イフ・タラレバ』は禁句です。 残念無念。

 

 五木寛之と塩野七生が言っている、歴史の真実、特に歴史上の人物の頭の中は覗けず想像するのみで、作家は自由に書けると。 幸村の頭の中は覗けない。 又、歴史と歴史小説の境目はどこ? 一般的に歴史は、勝者側が書いてきた。 

                 (20170426纏め、20190207改 #068)

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『日本の城郭 6(久留里城 尾根がY字に交叉、そこに天守・本丸が)』ー8ヶ所の堀切は「一般にいわれる空堀」で、尾根のキレットを掘ったものー

2019-02-07 10:14:15 | 探検

『日本の城郭 6(久留里城 尾根がY字に交叉、そこに天守・本丸が)』

『8ヶ所の堀切は「一般にいわれる空堀」で、尾根のキレットを掘ったもの』

」に

 久留里城は山城ですが、独立峰ではなく、急峻な、痩せ尾根がY字に交叉するところに、天守・本丸(海抜約155m)、二の丸(海抜約130m)がある。  

 

 尾根の麓に、三の丸、この三の丸をお互いに近接した大手門と搦め手門が囲む。両門の外に、侍屋敷がある全盛期に、3万石の禄高の大名の本拠。 これらの遺跡は、今は、ほとんど残ってはいない。

 

 両側が切り立った尾根に、堀切8ヵ所以上あり、1ヵ所は今回踏査、駐車場の奥から資料館に上る山道の途中にある。 この堀切は、『一般に言われる空堀』で、 尾根のキレットをさらに掘り下げたもの。 これが、攻め難く、守り易くできており感服。 刀槍での侍の戦闘の凄さを実感。

 

 本丸・天主の約20m直下に、男井戸・女井戸がある。籠城に役立ったとの看板あり。 湧水量がさほどあるとは思えず、縄張り・築城時点で、湧水量の確認命ぜられた家臣は大変だったろう。

 麓の内堀も、外堀も自然の川を利用、河岸段丘でかなり段差(約5-10m)あり。 内堀の近くに、平成の100名水の一つあり、久留里地域は水に恵まれている。

                           

 北条軍、二万余と戦って、里見軍は守り切った戦いは、大手門と搦め手門の目の前で戦われた。 久留里城は『戦う山城』、当然、籠城戦に強い城でした。 北条軍とは二勝一敗。 二回戦目は敗れ、占領されたが、のちに奪還。 

今後の課題:戦闘指揮所と戦闘推移の調査

         

 今の千葉県は、当時、安房国、上総国、下総国で、久留里城のあった上総国は複雑で天領も入り組んだ統治下にあった。    

今後の課題:近くにある、本多家10万石の大多喜城と、里見家9万2千石の居城、館山城を要再調査。 馬琴の創作『里見八犬伝』の舞台でもある館山城は、江戸の湾口の要衝であり、且つ、9万2千石という領地に比して経済力・戦力が優っていたのは、やはり海上交通を抑えていた経済権益が想像を越えて大きかったのでしょう。

しかしそれは家康の謀略によって、里見家の伯耆へ配流。  房総に名を馳せた戦国大名・里見氏は事実上、滅亡する。

                     (170402纏め、190207改 #067)

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