知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『小次郎の物干竿の燕返し(虎切り)は何故、武蔵の木刀に敗れた?』ー相手が一人の場合は、木刀の威力を知り尽くした武芸者であったことが勝因ー

2020-12-04 22:45:45 | 歴史・日本

『小次郎の物干竿の燕返し(虎切り)は何故、武蔵の木刀に敗れた?』

ー相手が一人の場合は、木刀の威力を知り尽くした武芸者であったことが勝因ー

   先ずは、キャプションについての、沢山の小説とウェブ情報から、想像してみた結論です。 

武蔵は、①膂力絶大にして、②屋内外の実戦経験も豊富で、③木刀の威力を知り尽くした稀有の武芸者であったことが勝因と推察しました。

 

 最初から大脱線の余談で失礼します。 『勝負は時の運』とよく言われます。 サッカーには、ズブ素人の自分は、団体球技のサッカーならではの、『運・ツキ・流れ・番狂わせ等の要素』があるように思えてなりません。 特にサッカーは、攻撃には『手』が使えませんので余計に。 また、リードしてからのボール回しは、知っていましたが、リードされてからのボール回しは初めてでした。 自分には『目から鱗』でした。  個人戦の格闘技では、これら『運・ツキ・流れ・番狂わせ等の要素』が少しは減少しそうです。 やはり個人の戦いは、心技体で臨むサムライの決闘・一騎打ちが、日本人の心に残るのではないでしょうか。 知り得る情報から、巌流島の決闘の背景を勝手に推察してしまいます。

 

 個人対個人の剣士の決闘・一騎打ちは、特に巌流島の決闘には、興味が尽きません(一騎打ちではあったが、小次郎に止めを刺したのは武蔵の弟子たちとの説もあるが)。 この二人の若さと円熟度を比較したくとも、武蔵の生年は1584年と判明しているが、小次郎の生年が天正年間(1573-1593)又は、永禄年間(1558-1570)との記録だけで不詳。 巌流島の決闘は1612年ですから武蔵28歳、小次郎20歳前後、又は、50歳前後なり、若さ同士の闘いであったか、若さvs円熟の闘いであったのかは不明。 小次郎は、中条流富田勢源一門であったことから、想像すると巌流島の決闘当時は、小次郎は50歳前後であった可能性がある。

 

 当時の日本人の平均的な身長は155cm~158cmと言われていますので、当時としては大きい二人であったが、小次郎の身長、五尺七寸(約173㎝)、武蔵は、さらに大きく、六尺(約182㎝)と大変な偉丈夫であった。

 

 昔の刀は、ほとんどは重心が鍔に近く、日本刀は基本的には『引き切りであって押切ではない』、一方、後世の刀は、その重さ(重心)が剣先から3寸(約10cm)下から刀身の中央辺りにあると言われており、『刀の重さで切る』。

 

 決闘に重大な影響を持つ、体力には『持久力、筋力(瞬発力)、敏捷性(平衡性、バランス感覚)、柔軟性等』の要素がありますが、サムライのことから思い浮かぶのは『膂力(一般的には腕力)』です。 ウェブ情報では『膂力とは、筋肉の力、又は腕力』とあります。

 

 剣豪小説では、ブームの火付け役の津本陽氏は佐々木小次郎と、彼のツバメ返しを以下のように書いています。 身長、五尺七寸(約173㎝)の小次郎の使いやすい刀は、身長より三尺(約91㎝)引いた長さが目安で、彼の使いやすい刀の長さは、二尺七寸(約82㎝)になる。 これは、まっすぐ立ち,利き腕で刀を下げ、切っ先が地上すれすれになる程度。 

 

 これに対して小次郎の大太刀の名『物干し竿』(刃渡り三尺(約91㎝)、柄一尺の大業物)も、『二天記』の記された江戸時代中期頃に名付けられたが、しかし、いつ誰が命名したのかははっきりしていない。 江戸時代は初代将軍・徳川家康が刀の長さを2尺8寸(約87.5cm)以内にするようにお触れを出したため、人々は小次郎の所有していた刀の長さが珍しかった。

 

 さて、燕返しですが、小次郎の時代には、攻撃は『一段打ち』という常識があり、この常識を打ち破って『二段・三段打ち』攻撃を編み出したことが画期的であった。 一段打ちによる攻撃が常識であったいうのが重要で、対戦相手の発想は第一段の上から下への攻撃が終われば、小次郎の攻撃が終わったと思い隙が生まれる。 一方、小次郎は、予定通りの二段打ち攻撃ですから、これが成功する。という無敵の必殺技『燕返し』の成り立ちです(この部分は別のブログで紹介済みを引用)

 

 武蔵は大刀を、脇差のように振るう腕力、握力を備えていたので、自分と互角に戦う相手には一刀で立ち会ったが、多勢と戦う時は、木刀ではなく二刀を使った。 これは敵の一人の小指を落すだけで相手集団に対しての効果は抜群であったと。 一刀は二刀よりも正確迅速に振れるから。 小次郎との決闘では、使い慣れた枇杷の木刀を用いた。 切っ先に鉛を仕込み、銅輪をはめた500匁(約1.9kg)の、木刀四尺一寸六分(約158㎝)は、小次郎の物干竿四尺(約152cm)400匁(約1.5㎏)に対して、膂力が上回る武蔵は、砂浜での戦いで、少し有利だったのではないか。 さらに、真剣の刃は横風の影響を受けると言われ、木刀は殆どそれがない。 吉岡清十郎との、ほぼ一騎打ちの決闘も木刀での勝利であった。

 

 命懸けの他流試合の経験豊富な武蔵は、太刀さばきが稲妻のように早く、対して小次郎は、道場での試合経験が多かったので、太刀さばきに差があったのでは。 道場での試合と形稽古が多かった小次郎に対して、凹凸のあり、草木が茂り、小石・砂利のある、野外での決闘立会経験が多かったのは武蔵でした。

 

 関ケ原の戦いでは、武蔵は福島勢、井伊勢と戦い、騎馬武者を襲い、馬上から引きずり落とし五個の兜首を上げたとある。 混戦になると馬上の鎧武者が脆いのは、その装備の重さにあり、引きずり落とされたら、一巻の終わりです。

 

 また、余談です。騎馬武者の重装備は、森蘭丸の甲冑(刀鎗含まず)の記録が参考になります。

 

兜:1,900g、面類:300g、袖:300g、籠手:1,100g、胴:4,700g、草摺:4,700g、佩楯:600g、脛当:300g、軍配:30g  合計、約14㎏(プラス、刀鎗の重さ4-6㎏)です

 

 これから解るのは、武田の騎馬軍団は、鉄砲だけでなく、織田軍の戦術に敗北したようです。 欧州中世の騎士(馬上の)軍に圧倒的勝利を収めたモンゴル騎兵軍が、その証明です。

 

 巌流島の決闘は、あれほどの闘いであったのですが、記録には詳細が残っていないので、瀕死の重傷を負った小次郎を武蔵の弟子たちが、止めを刺したのが真相のようですが、それ故、記録としては残されなかったと推察しています。                             

                 (20180701纏め 20201204追補 #024)


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