『古代の日本は・日本人は凄かった 2(出雲王国 vs 倭王権・大和朝廷)』
ー古代日本の出雲王朝・大和朝廷の起源・歴史は教わってなかったように記憶ー
半世紀余りも昔のことですが、インターハイの岡山蒜山登山大会の後に、山岳部の顧問の恩師に、お連れ頂きまして『縁結びの神』の出雲大社に参拝しました。 この時は盛りだくさんで、島根県の松江城も参観できました。 この松江城『イザって時に、最上階へ登る桐の階段を外して、その階段を最上階に持ち上げられる構造と、その目的』を知って、それ以来、城マニアになりましたが、これは余談です。
出雲大社は、いまも当時も、広義の『縁結びの神』でした。 『出雲大社に祀られる「大国主大神」は、古くから「縁結びの神様」として信仰されています。 ここで言う「縁結び」とは、男女の縁だけでなく、人間関係や、人々を取り巻くあらゆるつながりの“ご縁”のことを指します。』とありました。 このご縁か、社会に出てからは世界の十数カ国の人々と仕事でのご縁はできました。
当時の出雲王国の出雲大社ですが、時系列的には、法隆寺五重塔(創建1410年前)とか、東大寺大仏殿(創建1260年前)と中間に建造されていますが、その出雲王国は、知らぬ間に歴史から消えていったように覚えています。
法隆寺五重塔(創建1410年前)
出雲大社本殿(創建1360年前)
中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)も存在したと伝えられています。
東大寺大仏殿(創建1260年前)
出雲王国・出雲大社が、従来の理解よりもっと奥の深い歴史を持っていると思う様になったのは下記の理由でした。
❶古代の巨大な出雲大社
奇しくも2000年の春に境内の八足門前で発見された、南棟持ち柱に相当する宇豆柱(うづはしら)は、島根県立古代歴史博物館で公開展示。
かつての本殿は、現在の8丈(24m)よりもさらに高く、中古(中世)には16丈(48m)、上古(古代)には32丈(約96m)であったと伝えられています。 しかし、96mもしくは48mの社殿は建築上不可能ということでずっと疑問符が付けられていましたが、2000年の境内発掘調査の結果、杉の大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3ヶ所で発見され注目されました。 この巨大な柱が社伝に伝わるものであるということが判明し、『中古には16丈(48m)』の実在の可能性はかなり高くなりました。
❷大量に発掘された銅剣
1984-1985年の2か年の『荒神谷遺跡』発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土。 1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。 なかでも358本の銅剣はそれまでに全国で発見されていた本数を上回る量であり,注目を集めた。
❸天武天皇が作らせた『古事記・日本書紀』編集方針の違い
哲学者 梅原猛著『神々の流竄』『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』の中に解説された出雲王朝について、こう解説されています。
『かつて、スサノオやオオクニヌシの出雲王朝がこの国を支配していた。 韓国から渡来したスサノオは人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築くがやがて衰亡。 南九州から東征してきた天孫族に国譲りを迫られる。その出雲王朝の存在を歴史の闇に葬ったのは? 『隠された十字架』『水底の歌』に続く3部作の完結篇にして、日本古代史を塗り替える衝撃的論考。』
古代日本の大和朝廷の起源は、歴史の勉強の中では教わってこなかったように記憶しています。 なぜ日本では天皇制が、長く維持できているのか。 手がかりは『古事記』と『日本書紀』にありそうですが、浅学菲才の自分には、まだまだ五里霧中です。 難しい課題ですが、『日本人のルーツ』とか、『邪馬台国』とか、『卑弥呼』など、自分の齢などは言ってはいられないこの頃です。 『ラジオ体操・みんなの体操』と『漫歩散歩』をやっておれば、『COVID-19 籠り』も、『調べ物』への追い風と思えてきます。
(20200825纏め #209)
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