知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『写真の魅力 3(狙った通りの結果に 1 比較的撮りやすい夕景なので)』ー那須岳の「ゴルゴタの丘」は一期一会、「急いで、帰ろうよ」は連日待ちでー

2022-03-26 09:46:48 | 写真

『写真の魅力 3(狙った通りの結果に 1 比較的撮りやすい夕景なので)』

ー那須岳の「ゴルゴタの丘」は一期一会、「急いで、帰ろうよ」は連日待ちでー

 

ゴルゴタの丘』

 

 慢性片頭痛持ちのカミさんを那須茶臼岳に『一切荷物なしで手ぶらだから』と言って、引っ張って、この山に登山したことがあります。 

荷物は一切持たせず、すべては自分が背負ったアルミパイプ製背負子に括り付けた大きな発泡スチロールの箱に収め、カミさんは完全な手ぶらでした。 この背負子は、いつも『ボッカ役(荷揚げ役)』をやらされた山男・自分の象徴でした。 

頂上付近で、初めてお会いした、シルバー山歩き同好会のリーダーのご婦人に突然『イエローカード』を突きつけられました。 『もしもし、奥様が貴方と離れて、道に迷い、遭難したときどうするのですか! 非常食や雨具は背負わせなければだめですよ!』と。

『ハイ、早速ナップサックに分けて背負わせます。 アドバイス有難うございます』、自称山男が形無しでした。

 

 

『急いで、早く帰ろうよ』

 

利根川の堤防を夕方、散歩する家族の風景を狙っていました。 f1,000㎜の反射型望遠レンズを構えて、『ごめんなさい!』と言いながら、いつか撮りたいなと狙っていました。 このメルヘンタッチがやっと撮れました

                         (記事投稿日:2019/01/14、最終更新日:2022/03/26、#499)

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『刀のこと 2 (戦国時代の刀狩と、明治の廃刀令について)』ー日本の歴史において武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させたー

2022-03-26 00:15:29 | 兵器・戦争

『刀のこと 2(戦国時代の刀狩と、明治の廃刀令に ついて)』

『日本の歴史において武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させた』

 

先ずはウエブ情報から、長さや形状による日本刀の種類です

 日本刀のうち博物館などで展示されもっとも目にする機会の多いのが太刀です。
そのため、日本刀とは太刀のことだと思ってしまう方も少なくありません。
厳密には太刀より短いものを刀、さらに脇差、短刀と分類することができます。
また、広い意味では薙刀や槍を含む場合もあります。

 

①        太刀(たち)
平安時代後期~室町時代にかけて作られた刀身の長い日本刀のことを指します。 刀身の長さは70~80、反りの強いことが特徴的で弓や槍を補足する武器として使われていました。

 

②        刀(かたな)
室町時代の中期以降、江戸時代の末期まで主流となったのが刀です。
打刀と呼ぶこともあります。
時代劇に登場する日本刀の多くは刀であり、長く大きく反りかえった太刀と違い刀身が60㎝ほどと短く反りも小さいのが特徴です。
戦乱の世にあっては、すぐに臨戦態勢に入れることが重要視され、すぐに鞘から抜けるように機能性を追求したということになります。

 

 脇差(わきざし)
刀の補助として作られたのが脇差です
長さは30~60、日本刀の一種ではありますが、当時は刀ではないという認識から武士でない一般庶民も所持することが認められていました。
長い順に大脇差、中脇差、小脇差と呼ぶこともあります。

 

③        短刀(たんとう)
脇差より短い、刃長30㎝未満のものは短刀と分類されます
匕首(あいくち)、懐刀(ふところがたな)と呼ばれることもあり、帯刀を許されない席などで護身用として用いられたりしました。

 

刀と脇差の二本を帯びることを『二本差し』と『帯刀』と呼ぶようになったのは戦国時代以降と言われています。 平安時代末期までは太刀や腰刀を佩用(佩く、つまり腰に吊った)した。 これでは居合はやり難かったでしょう

当然、鞘には佩用するための部品と帯取りが取り付けられており、帯刀はせず腰に巻いて装着した。 

 

 鎌倉時代末期以降は、歩兵戦が多くなり、当然集団戦・白兵戦が多く、打ち合って戦うための武器、打物・打刀が主流となった。 この打刀が現在の日本刀で、太刀に比較、反りが小さい。

 

 17世紀の半ば、反りのある太刀や刀は、反りのない『棒の様な刀』が大流行した。 そこで太刀や刀の反りを、打ち直し『棒の様な刀』に改造することが流行した。 この流行は、ファッション・流行りからとズブの素人は考えましたが、実戦のためと分かり一安心です。 それでも、『棒の様な刀』は、佩刀ではなく帯刀できるので、ファッションとしても魅力があったのでしょうか。

いつの世でも『カッコよく』は大事でした。

 

 昔の武士は、各々が自分に合わせた長さ・重さの太刀・脇差を使っていたが、江戸時代の享保期以降は、画一的な刀・脇差好まれるようになった。 平和な時代は、ファッションファーストになったのでしょうか。

 

 最近知ったことですが、ウエブ情報からです。

帯刀というのは打刀と脇差の大小二本の刀を差す事です。
これは武士や苗字帯刀を許された町人だけの権利で、一般の百姓町人がすれば処罰の対象になりました。
しかし、脇差であれ、道中差であれ、一本だけ刀を帯びてもそれは帯刀にはならないので、旅行時の護身用、儀式での装束用など、正当な理由があれば、届けでの上で、2尺2寸3分(約67cm)以下の長さの刀剣類を所持する事が出来ました。大分の百姓・町人も刀又は脇差を差していた。

 

 戦国乱世の時代、百姓たちも否応なく戦いに巻き込まれたから、武器を所持して身に着けた。 これは宣教師ルイス・フロイスが、その著書『日本史・Historia de Iapam』に記している。

 

 この状況に大きな変化をもたらしたのが、豊臣秀吉による『刀狩り』ですが、秀吉は、天下統一後の『村の武力をそぐ』でした。 

そもそも『刀狩り』とは、ウエブ情報によれば;日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること、鎌倉時代1228安貞2年)に、第3執権北条泰時高野山の僧侶に対して行ったものです。

 江戸時代の後期の風俗画には、町人の脇差(一本差し)が見られるが、更に元禄時代は『町人の脇差だらけと言われる』が私見ですがこれが実体ではなく、傾奇ものが多く、絵師も彼らをたまたまモデルにしたのではないでしょうか。

 

 許可制でもなく、禁止もない町人の脇差であったがこれで悪事をなしたものは死罪であった。 もちろん公的場面では、脇差御免であったし、江戸時代後期には長脇差(大脇差と同じ、5460㎝)は禁止であった。 ヤクザ(この呼称は室町時代が最初)の長ドスと長脇差は同じもの、したがってヤクザの長ドス所持は違法であった。

 

 映画でよく見る、幕府の役人が凶悪な盗賊をバッサリと、切り捨てることはなく、捕り物には、実際『刃引きの刀』が使われたことがあった。 町奉行の与力・同心には犯罪者捕縛したときには褒美が出る規定があり、あくまで『召捕候もので打捨・切捨ではなかった。 幕府は御先手組の長谷川平蔵ら10名には非常事態には『打捨・切捨』を許可した。 幕末期は非常事態であった。

 

 明治政府は陸軍卿山県有朋の上申による『廃刀令』が、明治9328日に発布・実行され、特殊な職務の人以外の『佩刀・帯刀』は出来なくなった。

明治の『廃刀令の狙いは、旧武士』であり戦国時代の『刀狩りの狙いは、百姓と僧』であった。 米国の銃規制の狙いはなに、なぜ緩い、考えさせられます。

(記事投稿日:2018/10/17、最終更新日:2022/03/26#498

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『世界と日本の奇石・奇岩 2(柱状節理の不思議)』―「昔ロッククライマー」なら柱状節理のオーバーハングに、とりつかれそう―

2022-03-24 20:57:28 | 地球・火山・地震・津波

『世界と日本の奇石・奇岩 2(柱状節理の不思議)』

―「昔ロッククライマー」なら柱状節理のオーバーハングに、とりつかれそう―
               

 昔のことですが『河津桜』を撮りに行ったことがあります。 この河津桜は、2月上旬から開花しはじめる早咲きの桜で、1972年に河津町で発見されました。 伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし、約1ヶ月を経て満開になります。 この時に河津七滝の出合滝で、初めて柱状節理に遭遇しました。 こんな身近に柱状節理があったことに新鮮な驚きでした。

●河津七滝 出合滝

ウキぺデイアより引用
 この柱状節理の形状・曲がり方に伊豆半島の数千年前の火山活動と、その後の造山活動の荒々しさが想像できます。

 節理とは、主に火成岩に見られる現象で,露頭に見られる 規則性のある割れ目をいいます。 火成岩に節理ができるのは,熱いマグマが約700~1000℃で固まって岩石になり,その後,常温に冷える過程で体積がわずかに収縮するためです(節理の 方向はその冷却面に直交する方向になりやすい)。 節理には主に、柱状節理・板状節理・方状節理があります。 柱状節理・板状節理は火山岩,方状節理は深成岩である花こう岩によく見られます。

 柱状節理は、火山列島・日本にも沢山あります。 約1,000万年前には地殻変動で火山活動が盛んで、巨大な割れ目噴火なども多かったのでしょう。

●福井県坂井市三国町の東尋坊
ウキぺデイアより引用
「輝石安山岩の柱状節理」という、地質学的にも珍しい奇岩は 世界にも東尋坊を含め3ヶ所しかないと言われ、国の天然記念物に指定されています。 ここを訪れた時に、散策中に突然、目に留まったの『救いの電話(2ヶ所)』でした。 なんとも辛い印象を持った記憶がありますで。


●宮城県白石市の材木岩
ウキぺデイアより引用
国の天然記念物でもある高さ65m、幅100mの材木岩を一望でき、渓谷の雄大な眺めが楽しめる。


●兵庫県豊岡市の玄武洞
ウキぺデイアより引用
 兵庫県北部、豊岡市の円山川右岸山麓にある洞窟で、国指定の天然記念物。 約1万年前の更新世(洪積世)末にこの付近で火山活動があり一帯に橄欖石(かんらんせき)玄武岩を噴出した。 これが冷却する際、多数の凝固中心線ができ、そこに周辺のマグマが引き寄せられて凝固したため、みごとな柱状節理が生じた。


●宮崎県高千穂町の高千穂峡
ウキぺデイアより引用
 大噴火による阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下った。この火砕流堆積物が冷却固結し溶結凝灰岩となり、柱状節理が生じた。溶結凝灰岩は磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。高さ80〜100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷(高千穂峡)と呼ぶ。 


米国 ワイオミング州 デビルズタワー(海外にもありました奇跡の姿の柱状節理です。)
ウキぺデイアより引用 
 約2億年前の中生代三畳紀にロッキー山脈が隆起した際にマグマが活動し、この地域の堆積岩を突き破り貫入した。溶岩である岩頸は冷えた後周囲の堆積岩より硬かったため、長年にわたり堆積岩が浸食・削剥された後もそのまま残った。 岩質は響岩質斑岩で、冷却する際に柱状節理という垂直方向の割れ目が発達した。

ウキぺデイアより引用
 標高は1,558mだが、麓からの比高は386m程度で、頂上は91m×55mの広さがある。 南壁垂直壁面の中間の壁、ハーケンを打ち込む場所もなさそうですが、『昔ロッククライマー』なら、このオーバーハングには、とりつかれそうです
  (記事投稿日:2020/06/28、#497

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『100m走とスプリンターのこと-3(ボルトの有終の美)』—昔は100m走にはボルト選手のような196㎝94㎏の体躯では不利不向きと— 

2022-03-23 06:14:25 | スポーツ

『100m走とスプリンターのこと 3(ウサイン・ボルトの有終の美)』

『昔は100m走にはボルト選手のような196㎝94㎏の体躯では不利不向きと』 

先ずは、今回の世界陸上100m走決勝のメダリストのタイムと、ピストルの音からの反応時間です。

❶金メダル J. ガトリン  992反応時間 0.138

❷銀メダル C. コールマン 994反応時間 0.123

銅メダル U. ボルト   995(反応時間 0.183

タイム差は、 1位に対して、2位:+0.020秒、 3位:+0.030秒 

反応時間差は、1位に対して、2位:-0.015秒、 3位:+0.045秒 

何事も、そうですが『スタートダッシュが肝心』と言われる所以です。

スタート遅れでも、堂々と走って、有終の美を飾りたい』という咄嗟の考えが過ったのではないでしょうか、と思う野次馬です。 

ボルトのフライング失格経験は、『一回のフライングで失格』するルールが、初めて適用された、2011年世界陸上、韓国テグ大会予選で、この『一回のフライングで失格』が適用された、最初のスプリンターでした。  このフライング以来、ボルトの100m走決勝スタートには、いつ見ても外野は、喉がヒリヒリする緊張を覚えます。 

最近では、高身長・重量級のスプリンターは大勢いますが、昔は100m走・スプリントには、ボルト選手のような、高身長196㎝、重量級94㎏の体躯では、不利、不向きとまで言われてきました。 ボルトは、大げさに言えば、今も、今までも、100m走のスタートは、苦手としています。   

現役中からレジェンドと言われる、このスプリンターは、ほぼ完成された、アスリートですが、スタートが苦手で、100m走に、不向きだったとおもわれる節があり、過去の陸上競技を始めたころに見られます。 21歳までは参加しても入賞記録があるのは200m走だけ100m走は勿論入賞記録はなく、一見最も向いていそうな400m走にも参加記録はなく、得意は200m走でした。

この備忘録をまとめている最中に知ったボルトの200m走を欠場のニュース、ドラマです。

ボルトをして、スタートを超緊張させるようになった『一回のフライングで失格』が適用された、背景のウェブ情報です。

不正スタートに対するペナルティも競技のルールによって異なる。陸上競技では、2002までは1選手当たり1回までフライングが許されたが、2003より2回目以降のスタートでフライングした全ての選手が失格となるようルールが厳格化され、2010より1回目のフライングで即失格となるようさらに厳格化された。 

 

さらに反応時間と『一回のフライングで失格』についてのウェブ情報です、

国際的な陸上競技のルールでは、100m走などのスタートにおいて、ピストルの音から0.1秒以内に反応するとフライングになります。ヒトが耳でピストルの音を聞いてから、筋肉に命令が伝わり、反応が起こるには01秒以内では不可能というのがその理由です

記録にも記憶にも残る人類最速のスプリンターが、世界中に惜しまれつつ、トラックを去ります。 

これからの楽しみは、カール・ルイスの前半(トップスピードまで約40mの凄い加速のピッチ走法と、ウサイン・ボルトの後半まで伸び続ける(トップスピードまで約60m豪快なストライド走法を、併せ持つスプリンターが必ず登場することを待つことにします。

        (記事投稿日:2017/08/10、最終更新日:20210323、#496

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『世界の城郭 1-1(難攻不落の堅城コンスタンティノープルを陥落させた最高の作戦)』—ウルバンの大砲と、丘を越える艦隊と、エリートのイエ二チェリ部隊と— 

2022-03-23 05:54:59 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 1-1(難攻不落の堅城コンスタンティノープルを陥落させた最高の作戦)』 

『ウルバンの大砲と、丘を越える艦隊と、エリートのイエ二チェリ部隊と』

 

先ずは、城郭・宮殿の大きさランキングです

1位:フランス・ベルサイユ宮殿、約107平方km、周囲約42km

2位:中国・紫禁城、内城・外城合計、約63平方km、周囲約33km

3位:日本・江戸城、約25平方km、 周囲約18km

4位:トルコ・コンスタンティーノ、 約15平方km、周囲約21km

 

この『コンスタンティノープル』で、気になり続けた文章がこれでした。

『わたしがあなたからほしいものは、ただ一つ。 あの街をください』

ビザンチンの歴史家ドュカスが伝えるオスマントルコの若き皇帝メフメト2世が、(後に粛清してしまう)大宰相カリル・パシャに、父ムラト2世がとった融和共存策をかなぐり捨てて、ビザンティン(東ローマ)帝国首都コンスタンティノープル(=あの街)征服を決行することを伝える台詞です(塩野七生『サイレント・マイノリティ』より)。

 

この皇帝は、コンスタンティノープルを三度攻めてます。 三度目の正直は、次の総合力でした。 

ウエブ情報です。

 

(1)ウルバンの大砲

ウキペデイアから引用

コンスタンティノープル陥落に貢献した巨大砲史上名高い、1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル攻略戦。 この時に絶大な威力を発揮し、ヨーロッパ諸国を震え上がらせたのがハンガリー人ウルバンが設計した巨大砲。

 

・総重量1.6トン、長さは5m、直径は1m

63cmの石の砲弾300㎏)1.6㎞)放つ能力を有しました。

・当時の常識からすると、規格破りのモンスター兵器。

 

ビザンチンの誇る分厚い城壁に次々と穴を開けましたが、一度打つのに3時間近くかかり、また暴発も多発し多くの砲兵を巻き添えにしたそうです。

かなり扱いは大変だったようですが、攻略戦に多大な貢献をしたのも事実で、歴史上の巨大兵器の中でもダントツの活躍をみせました。

 

(2)丘を越える艦隊

ウキペディアから引用

 

❶坂を上る道に敷き詰められた材木には動物の脂をどっぷりと塗る。

 

❷車輪つきのそりのような台が一対用意され、ボスポラス海峡に集まったトルコの船をその上に押し上げる。そして台車と縛り付ける。

 

台車に載せられた船は道の左右に数十頭ずつ分かれた牛によって引かれていく。後からも人の手によって押されていく。白馬にまたがり指示をしているのはメフメット2世。21歳なのにこのおじさん顔は威厳を表すためだろうか。

 

❹この間ビザンティン側の目をそらすために金角湾の鎖のあたりで激しく砲撃を加えた。すべてのビザンチンの船は鎖を守る体制をとっていた。
こうして、見る人々が唖然とする中、メフメット2世は当然のごとく顔色も変えずに采配をふるっていった。

 

ウキペデイアから引用 

丘を上りつめるとあとは下りになる。そうなればわずかに押すだけで滑っていく。そして、これまでラテン人の強固な守りで一隻も侵入できなかった金角湾の奥に、次々と70隻の船がすべり進水していくのであった。
テオドシウスの城壁で守りに付いていたビザンチン側の人々は声もでなかった。浸水した船はすぐに周りを囲み、防御の陣をはり、次にやってくる船を守った。しかし、その必要もないくらい、ビザンチン側はあまりの事実に驚愕し、目の前の事実を信じられず、呆然とするのみであった。


 

(3)イエ二チェリ部隊

14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプーンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。 トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。 この精鋭部隊は、『三年から数年に一度不定期に実施されるデウシルメとよばれる強制徴用で供給された。 特徴は主にバルカン半島の、トルコ人以外のキリスト教徒の子弟から徴用されたことである。彼らはスルタンの奴隷(カプクル)とされ、スルタンから俸給が支給され、少数精鋭であったのでエリート意識が強く、スルタンの戦争では常に中心』となって戦った

 

コンスタンティノープルの最後

2回の攻撃に負けた、街を守るキリスト教徒は、コンスタンティノ―プルは、イスラム教徒からキリスト教世界を守る最後の砦であり、必死の防戦で、第一回、第二回の攻撃には耐えたが、第三回には、『イエ二チェリ』スルタン直属の精鋭部隊も投入して、突撃に成功した。

 

中世の終りから近世始めに築城された世界の巨大な、城郭・宮殿の大きさ(最大時)の比較をすると、この時代の大筒・大砲の射程距離46kmと命中精度を考慮してか、城郭・宮殿はどんどん大きくなった。 

 

城郭・宮殿の巨大化は、大筒・大砲攻撃に備えると、同時に権威の象徴でもあった。 武田流軍学の、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』とあり、城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができないと、大筒・大砲が発達してない時代でも、このように『人心掌握大事』を言ってます。

 

これとは、真逆で、始末に負えないのが、どこかの集団(イスラムの一部)がやる『人間の盾・ヒューマンシールド』で、これには絶句です。

                 (20170526纏め、20190220改、#495)                   

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