知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『ベネズエラ・マラカイボ湖は世界一の雷多発地帯、3,600本/時間』 『この湖に注ぐ、カタトゥンボ川の稲妻は、横に飛ぶスパイダー雷』

2022-03-22 22:10:07 | 地球・火山・地震・津波

『ベネズエラ・マラカイボ湖は世界一の雷多発地帯、3,600本/時間』

『この湖に注ぐ、カタトゥンボ川の稲妻は、横に飛ぶスパイダー雷』

 

怖いものそれは『地震・雷・火事・親父』という格言・ことわざがありますが、今では親父が弱くなってますので『火山・地震・津波・人類』と言えそうです。

地殻変動に起因する『大噴火と火山の冬』・『予知困難な地震』と、『大噴火と大地震に起因の津波』の恐怖と、更に、人類の生存が原因と思われる『気候の激甚化』等々、親父よりずっと怖いものばかりの世の中です。

                  

米国の雷多発地域、ケンタッキー州のゴルフ場のグリーンへの落雷の写真ですが、雷の威力で吹っ飛んだ形跡すらなく、そこにあるのは稲妻模様だけです。 これは『リヒテンブルク図形』と呼ばれ抵抗の少ない場所を求めた電流が走った跡です。

ウエブ情報から引用

昔のことで、実は、もう時効ですが、ゴルフ場での経験です。 最終ホールのラウンド中のグリーン上で雷警報を聞き、4人で2打目パット待ちでしたが、クラブハウスが目の前ですので、退避を逡巡していた時に、音はなく、突然『ピカッ』と来ました。 恐ろしさで記憶は何もなく、今のルールではありませんので旗は抜いてありました。 落下ポイントから火花がグリーン上を放射状に走ったように覚えています。

 

余談が長くなりましたが、表題『ベネズエラ・マラカイボ湖は世界一の雷多発地帯、3,600本/時間』に戻ります。

 

マラカイボ湖

ウエブ情報から引用 

ウエブ情報から引用

 

ベネズエラ北西にある湖(塩湖)。 南アメリカ大陸最大の湖、実際は水路によってベネスエラ湾、さらにはカリブ海、大西洋にもつながっているため、海と定義する事もでき、その場合南米最大の湖(淡水湖)はチチカカ湖となります。

 

南米最大のマラカイボ湖の雷(遠方の雷は夕日と同じ原理で赤く)

ウエブ情報から引用

 

南米最大のマラカイボ湖の雷(近くの雷は青白く)

ウエブ情報から引用

マラカイボ湖が1時間に3600発もの雷が発生しこれはギネス記録にもなっている。 しかも特徴的なのがここで発生する雷には一切音が生じないと言うこと。 不思議な雷で現在も学者による研究が進められています。

 

正確な原因は分かっていないようですが、今の説としてはアンデス山脈に湿った風がぶつかることで発生する雷雲と沼地が絶え間なく放出し続けるメタンガスの影響と考えられているそうです。

この無音の雷は別名「マラカイボの灯台(Faro de Maracaibo)」とも言われています。

灯台というのは先頭が光っており、船乗りや航海士の目印として使われますがまさにこのマラカイボ湖の雷が凄まじすぎてその閃光を灯台代わりに使っていたことからこう言われるようになったそうです。

 

カタトゥンボの雷(水平に蜘蛛の巣のように伸びるスパイダー雷)

ウエブ情報から引用

この星『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ』には、不思議なことがいっぱいです。 

(記事投稿日:2022/03/22、#494)

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『残したい!世界でも数少ない「姉妹・シスターズ」風景いろいろ!』 『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 12』

2022-03-19 18:13:44 | 地球・火山・地震・津波

  『残したい、世界でも数少ない「姉妹・シスターズ」の風景いろいろ!

宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 12』

 

先ずは、『八百万神の国』日本の、邪馬台国・出雲国・大和国の神話に結びつく

宗像三女神(むなかたさんじょしん)

ウエブ情報から引用

日本の女神の3柱であり、美しい姉妹神です。
アマテラスオオミカミは誕生した女神たちに「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅し、宗像の地に降臨を命じました。 現在も宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮にそれぞれが鎮座し、航海安全はもちろん、あらゆる交通安全の神様として祀られています。 

現世、こんな時代ですから、日本の縄文・弥生時代に続く、邪馬台国・出雲国・大和国の歴史には、心を癒されます。

 

オーストラリアの、スリーシスターズ

ウエブ情報から引用

アボリジニの伝説として、美しい3姉妹と父親である祈祷師の話があります。 3姉妹の名前は、マイナー、ウィムラー、ガナドゥといい、洞窟に住む魔物を怒らせてしまったことで襲われ。 祈祷師の父は3姉妹を守るために魔法の杖を使って岩へと姿を変えさせ、父はコトドリとなって逃げることに成功。 しかし、父は魔法の杖を谷底に落としてしまいます。 その結果、3姉妹は人間に戻ることができず、父はいまも杖を探して空を飛び回っているというお話です。

ユーカリが生い茂るブルー・マウンテンズ国立公園の中にあります。ブルー・マウンテンズ国立公園は、シドニーからの日帰り観光スポットとしても親しまれており、日本では味わうことのできないような圧巻の景色が堪能できる国立公園です。 

 

ブルー・マウンテンズは構造的にグレーター・シドニー盆地の一部、盆地は過去3億年にできた堆積岩の層から成り、ブルー・マウンテンズもこの間、盆地の西側を突き上げる地殻変動により形成された。 山頂部の露頭した赤茶色とユーカリの緑のコントラストは本当にきれいで癒されます。

 

中国の四姑娘山左より 四姑娘山・三姑娘山・二姑娘山・大姑娘山)

ウエブ情報から引用

四姑娘山は、中国四川省、成都の北西220kmにある四つの峰:大姑娘山5025m、二姑山5276m、三姑娘山5355m、主峰・四姑娘山6250mが連なる山です。 美しいチベットの四姉妹が、四つの峰になったという伝説があり、チベット族の聖なる山と崇められています。

 四姑娘山自然保護区は、氷河が作った急峻で、複雑な地形がそのまま残り、多種多様な動・植物が生息し
植物が咲き乱れます

 

人間の世界と同じで、末娘が一番大きくなるようで、微笑ましい山並みですが、この『四姑娘山』の縦走は山男現役時代も、当然『夢のまた夢に』であったことです。 傘寿に今はグーグルマップで、ルートハンティングからフル装備でのクライミングと縦走の疑似体験を楽しみます。 お花畑が見えるかどうかも楽しみであります。 この山の、高山植物の宝庫を『桃源郷』に例える方々が居りますが、素晴らしい例えですと感心しきりです。

 

英国・サセックスのセブン・シスターズ(欧米では「7・セブン」になじみが多い、ラッキー7、七つの大罪、七元徳、七大陸、七つの海、世界の七不思議とかいろいろ!)

ウエブ情報から引用

セブン・シスターズ(Seven Sisters)は、イングランド南部イースト・サセックス州にある白亜系チョークからなる海食崖である。 緩やかな起伏の丘が削り取られて形成された白い崖が連なる様子からその名がある。 イギリス海峡に面している。 その東側、イーストボーンとの間にはピーチ―岬があり、一帯はサウス・ダウン国立公園に属し、景勝地として人気がある。

ケント州ドーバーにありドーバー海峡に面している『ドーバーの白い崖』も同様に白亜系チョークからなる海食崖で、『セブン・シスターズ』と混同されることがあるが、全く異なる場所にある。 この地図のStrait of Dover表示のStrait の上に位置するのが『セブン・シスターズ』です。

 

『セブン・シスター』と混同される『ドーバーの白い崖』

ウエブ情報から引用

 

ウエブ情報から引用

今回は、『姑娘』も『シスターズ』も、音は異なりますが、中国語圏と英語圏に合わせて20年以上、住み、風景を見たことを感慨深く思い出しています。

(記事投稿日:2022/03/19、#493)

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『山は美しい 8(登りそこなった山は、傘寿には遠い、平ヶ岳』 『東北の山々には、穏やかな平頂と池塘が多く魅力はあるが、遠い』

2022-03-13 23:15:22 | 山・山岳

『山は美しい 8(登りそこなった山は傘寿には遠い、平ヶ岳』

『東北の山々は穏やかな平頂と池塘が多く魅力はあるが、遠い』 

半世紀も昔のこと、高校が晩から男子校でしたので、ボクシング部までも、ありました。 各運動部は大柄新入生をつかまえては、手っ取り早く測定できる基礎体力を測定して、勧誘しておりました。 自分は肺活量・握力・立幅跳びでは、数値が突出していましたので、いくつかの運動部から声がかかりましたが、2時間近い遠距離通学でしたので、朝練参加がどうにもなりませんので『山岳部』に入りました。 その時、親父が即、自分に『傷害保険』掛けたことをずっと後で知りました。

 

最初に登った山は、新潟県と長野県の境界にある苗場山(2,145ⅿ)でした。 山頂部湿地帯は高層湿原および雪田草原と類される、穏やかな平頂と池塘が多く魅力がある山でした。 それ以来、山にとり付かれました。

 

表題に戻ります。 ウエブ情報から引用です。

群馬県と新潟県の境界にある平ヶ岳(2.141ⅿ)

ウエブ情報から引用

 

自然が生み出した奇岩「玉子石」

ウエブ情報から引用

平ヶ岳は只見川の水源に近い銀山平の奥に、山名のとおり穏やかな平頂を盛り上げている山で、大正4年(1915)7月に、日本登山界の元老、高頭仁兵衛氏が人夫4名を雇い、3日間を費やして、只見川の大白沢から登頂した記録がある。
頂上部は大小の池塘を散りばめ、お花畑に飾られた高層湿原だが、登山道がなかったので、沢登りや残雪期登山の記録が散見されるだけで、一般の登山者には幻の存在であった。
 

昭和40年に湯之谷村が、銀山平の鷹ノ巣登山口から大倉尾根の登山道を伐開して、ようやく登山界に知られるようになった。中ノ岐川に森林伐採用の林道もでき新コースが開発され、浩宮皇太子殿下(当時)も登山された。ただし中ノ岐道は伐採事業が終了したため、現在は車での入山は不可能となっている。ただし銀山平の民宿に宿泊すれば、この中ノ岐登山口へと送迎をお願いできる。
鷹ノ巣コースは登り6時間30分を要する。平ヶ岳と池ノ岳の間には一時幕営地が整備されたが、現在は使用不可となっているため、山中に宿泊はできない。
この山も山頂付近は自然保護のため木道が延々と敷かれて、登山者に喜ばれているが、尾瀬と同様に公園の散歩道を思わせ、大地を踏み締める感触のないのが何か物足りない。
池ノ岳近くの稜線上に、玉子石と呼ばれる円形の巨岩が彫刻のように立っており、造化の妙に驚かされるであろう。
 

大昔、最初に登った苗場山(2,145ⅿ)と、この平ヶ岳(2.141ⅿ)は高さと、穏やかな平頂と池塘が多く魅力のある山で似ておりますが、平ヶ岳の方は『傘寿』には、困難なアプローチや登山ルートのこともありますのでグーグルマップ登山で楽しみます。

(記事投稿日2022/03/13、#492)

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『鑑真の凄さ様々 1(5回目の挑戦で、海南島に漂流失明後、日本に渡航)』 『昨今の世情から,凡人には想像もできない,鑑真の使命感・生き様』

2022-03-13 11:52:27 | 偉人

『鑑真の凄さ様々 1(5回目の挑戦で海南島に漂流失明後、日本に渡航)

    『凡人には想像もできない、鑑真の使命感・生き様』 

 

奈良時代の鑑真と行基は、ともに渡来人として、両人物とも、日本のために力を尽くしてくれた人物です。 その違いは国籍と貢献内容でした。 

鑑真は唐人。 

行基は朝鮮渡来人系の日本人。

鑑真は日本の仏教の制度を整え、様々なものを伝えた。 

行基は国内インフラ制度の社会事業に貢献した。 

聖武天皇や行基が奈良の大仏を建立している頃に乱れた僧の風習をどうにかしたいと頼まれ、唐から日本にやってきたのが、鑑真で、皇帝からも才能豊かで博識高い僧侶として認められており、日本に行くことを止められていたほどの人物です。 しかし、日本から遣唐使の使いでやってきた普照と栄叡の必死の願いにより、鑑真は日本へ戒律を伝えに行くことを決意します。 

鑑真の来日については有名なお話の通り、来日に5度失敗し、遣唐使として来日した大伴古麻呂(おおとものこまろ)らの助けにより、6度目にして奇跡的に来日することに成功します。

その間、密航をばらされたり、投獄されたり、鑑真の目が失明したり、志半ばで栄叡が亡くなったりと波乱万丈の日本渡航でした。

 

日本における『律宗』の開祖

『律宗(りっしゅう)』は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。 中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。 日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。』

ウキペデイア情報から引用

釋鑒真・鑑真(唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和尚像」)

名:淳于(俗姓)

号:唐招提寺住持

尊称:傳燈大法師

生地:唐朝揚州江陽縣 

 

688-763, 奈良時代の帰化僧

鑑真(がんじん、旧字体:鑑、繁体字:鑑真、簡体字:鉴真、688-763年、奈良時代の僧人。 日本における律宗の開祖。

奈良時代、日本人僧の求めに応じて日本渡航を決意した高僧・鑑真。 しかし渡航は失敗を繰り返す。 5回目の挑戦では漂流して海南島まで流され、鑑真自身が失明してしまう。 それでも日本の朝廷は鑑真の渡航を求め続ける。 実は鑑真以前にも何人もの高僧が日本にわたっており、大仏開眼の導師も務めていた。 それでも鑑真を招かなければいけなかった理由はなんだったのか?最新の研究をもとに、聖武天皇の目的と鑑真来日の意味をこれからは調べてみたいと思いました。 鑑真は、あの密教や天台宗の教えも伝えています。 空海や最澄も影響を受け、比叡山や高野山もなかったかもしれません。  

更に驚きですが、鑑真が、みそ汁や豆腐、漢方薬が伝えられています。 和食のルーツも、こうやって今でも食べられているのは、命を懸けて鑑真が持ってきてくれたからですね。

三大宗教の二つ、キリスト教とイスラム教の発祥は砂漠でした。 緑豊かな国・日本は『八百万(やおよろず)の神』だとか『無神教』また『無宗教』と言われます。 内田希氏の『鑑真、最澄、空海 -平安仏教の成立-』ウエブ情報の抜粋・引用です。 長文の引用ですが読んでない著書、みてない映画おありますので備忘録としました。 

『日本人は「無宗教」だ、という言説を見かけることがあるがこれは誤りだと思う。 基本的には日本は仏教(お寺さん)と神道(神社さん)のハイブリッドのような宗教環境にあり、目をつり上げて宗教活動、布教活動をすることは余りないが(カルト宗教以外は)、ケースバイケースでそれぞれの宗教儀式(お宮参りとか 法事とか)に参加することで、心の平安を得ている、という辺りではないだろうか。 日頃宗教に関心は無くとも、自分の家の宗教は何なのか、知っておくのも大人として何かの際に必要になるだろう。 この稿で取り上げる本は、8世紀の鑑真和上招聘から真言宗、天台宗が定着する9世紀までの日本仏教の確立期を扱った小説(または史伝)である。

 

『天平の甍』  

話は天平四年(西暦732年:奈良時代前半)から始まる。6世紀に伝来した仏教 は朝廷の保護により全国に広まっていたが、僧が守るべき戒律を定めた「戒」を授ける僧、戒和上が未だ存在していなかった。 日本仏教の完成を目指すべく、戒和上招聘を目的として第九次遣唐使に4人の日本僧が留学僧として参加するが、 その使命は簡単なものではなかった。 無事唐土に到着はしたものの、戒和上として日本に渡ってくれる僧は簡単には見つからない。 在唐10年、ようやく高名な学僧鑑真が、日本へ行こう、と言ってくれる。 しかし、妨害、難破、皇帝の不許可などで5回の渡日の試みが失敗し、その間、日本僧の内、帰国を拒む者、他の夢 を追う者が現れ、そして一人は唐土に客死する。鑑真和上も5度の渡日失敗の中 で失明してしまう。様々な困難の後、一人残った日本僧普照(ふしょう)はつい に鑑真和上一行と共に帰国を果たす。  井上靖氏の研ぎ上げられた日本語は簡潔かつ美しい。 できればこのような文章 を書いてみたいものである。 井上靖氏がもう少しご存命だったらノーベル文学賞日本人二人目は井上氏だったろう。

 

『氷輪』  

鑑真和上は日本に上陸し、和上招聘の目的であった 授戒の儀式が行われ、そして唐招提寺が建てられた、と一応のハッピーエンド的 に語られるが、「氷輪」は和上一行が都に到着した辺り(天平勝宝6年、西暦754 年:奈良時代中期)から始まる。  都に到着した一行は朝廷によって大歓迎を受けるが、その後の事態は鑑真らと 共に帰国した普照が思い描いていたようには進まない。 授戒権を握ることで仏教 界を完全に支配下に置くことを目論み、一旦、日本人の戒和上が誕生すれば唐僧達を棚上げ(用済み)扱いにしようとする朝廷、新参の唐僧に改めて戒を授けて 貰わないと僧として認められないことに反発する日本の仏教界、さらに朝廷内部での主導権争い、藤原仲麻呂の乱、道鏡事件。 教科書に載らない話と、教科書で は関連性抜きで語られる事件が複雑に絡み合い、歴史が進行してゆく。  修学旅行の定番となっている奈良の唐招提寺は、今でこそ立派な伽藍となっているが、鑑真和上の生きていた時代、そこは寺未満 の唐律招提という私塾に過ぎず、それも失脚した皇族の屋敷跡にその屋敷の古材を利用して建てられた粗末なものでしかなかった事をこの本で知った。 そのことを知ると、20年の歳月の果てに日本に戻った普照、5度の失敗にめげずに波濤をこえて来日した和上一行は、空しく感じなかったのだろうか、と思ってしまうが、そう思うのは私が凡人だか らなのだろう。 唐招提寺の、あまり観光客の行かない一角に、和上達が命がけで 伝えた「戒」を授ける戒壇の跡がある。

 

『曼陀羅の人』  

弘法大師空海、間違いなく日本史上のスーパースターの一人だろう。 この作品は空海の生涯の内、遣唐使に留学僧として同行して入唐(西暦804年;平安時代初期)するところから、20年滞在の予定を2年で切り上げて離唐するまでを扱っている。 海賊と疑われて上陸できないでいる遣唐大使の窮地を、名文達筆の手紙で 救う所から始まり、長安に着けば瞬く間に梵語(サンスクリット語)をマスターするわ、当時長安に集まっていた様々な宗教者と親交を結ぶわ、外連味たっぷりに密教の大阿闍梨(カソリックだとローマ法王みたいなもの)恵果のもとを訪ねれば「我先より汝の来るのを待つや久(来るのずっと待ってたよ)」と言わしめ、僅か三ヶ月足らずで密教を完全にモノにするとすぐに大阿闍梨の位を授けられ、東アジア密教世界のトップに立ってしまう。  頗る格好良く、日本人として痛快である。  「氷輪」で西域出身の少年僧として登場した如宝(にょほう)は後年唐招提寺を完成させた人とされている。 『曼陀羅の人』の中の空海の回想で、若き空海が老僧となった如宝と対話する場面がある。 ここで鑑真と共に来日した唐僧の名を見る と、旧知の人が苦難の末に平安を得たことを知らされたようで、懐かしく何だかホッとする。

 

『雲と風と 伝教大師 最澄の生涯』  

弘法大師と並び称される伝教大師最澄。 教科書では単純に並列標記されてしまうが、2人の運命は複雑な綴れ織りをなしている。 天衣無縫で数々の伝説に彩られた空海に対して最澄はあくまでも真面目である。  琵琶湖のほとりの豪族の子として生まれた最澄は仏門に入る。 時代は桓武天皇が国家事業として、新都造営(長岡京と平安京)、蝦夷(東北)征伐、遣唐使派遣を推し進めていた頃にあたる。 真面目に12年の山籠もりをした後、桓武天皇の近くに上がった最澄は、悩める帝を救わんと真面目に天台教学の研究を始め、日本国内だけでは限界があると感じると真面目に遣唐使とともに渡唐することを志願する。 空海と同じ遣唐使節で渡唐するが、長安には行かずに真面目に天台山に直行して大急ぎで教典を集め日本へ帰る。 帰れば古い仏教界と真面目に論争し、そして自分が唐で偶然のように拾ってきた密教が不完全なモノだと知ると、後から 戻った空海に真面目に弟子入りしようとする。  華やかな空海に比較して最澄は真面目で地味なように思えるが、彼の建てた延暦寺はその後、法然、日蓮などの日本仏教の指導者を多く輩出している。 天才空海に対して最澄は真面目な教育者として優れていたのだろうと思わせるその後の歴史である。

 

『空海の風景』  

香川県(空海の生地、讃岐)出身者には必読書だろう。 空海の生まれから入定まで、当時の社会情勢、歴史のうねり、最澄との絡みも含めて膨大な資料を基に分厚く描いている、所謂「司馬文学」である。 『曼陀羅の人』に比較すると、やや空海と距離を取っているようで、少し突き放しているような感じもうける。 空海と最澄の間で交わされた論争や、密教とは何か、についての司馬氏の解釈も興味深い それでは問題の理趣経、それから大日経と法華経も読んでみようか、という気になる。  高野山(真言宗の総本山)では、空海は入滅(死)したのではなく今でも奥の 院の廟所の中で定(じょう;生と死の間の定常状態?)にあるのだとされているらしい。 現在でも、毎日の食事と衣服を整える特別な役割の僧侶が存在しているそうである。  奈良時代は何々の乱とかが頻発し、都が結構血なまぐさいけれど、平安時代に入るとあまりそういうことがなくなる(武士の登場までは)。 真言宗、天台宗などが成立し、古代日本が成熟してきたということなのだろう。 理工系の人間は、「宗教」、と聞くと、迷信だ、と否定するのがかっこよさそうに見えるが、元来、宗教 と科学とは別次元のものだと思う。 歴史的には宗教の持つエネルギーは否定のしようがない。

 

『弘法大師御入定1150年御遠忌記念映画 空海』  

高野山の全面協力で作られた、弘法大師の生涯を描いた映画。 空海役は北大路欣也氏、最澄役は加藤剛氏、ほか大物俳優多数。 当時の歴史をかなり忠実にトレースしているので、観てから読んでも、読んでから観てもなかなか感慨が深い。

 

今回の追加を含め、余生の読書計画が、既にオーバーフロー状態です。

(記事投稿日:2022/03/13、#491)

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『公園のヒマラヤスギに松ぼくリ(スギでもマツ科ヒラマラヤスギ属)』 『ヒマラヤスギは、三ッ池公園では垂直に、芝増上寺では盆栽の如き枝ぶりに!』

2022-03-11 10:51:21 | 植物・花

  『公園のヒマラヤスギに松ぼくリ(スギでもマツ科ヒラマラヤスギ属)』

『ヒマラヤスギは、三ッ池公園では垂直に、芝増上寺では盆栽の如き枝ぶりに!』

 

ヒマラヤスギ 深根型(直根型)

ウキペディア情報から引用 

 

三ッ池公園のヒマラヤスギの松ぼくリ(球果)

ウエブ情報から引用

 

芝増上寺『グラント(ヒマラヤ杉の話)』

ウエブ情報から引用

『グラント将軍松』とも呼ばれています。

正しくは『ヒマラヤスギ』。 樹間距離に関係なく、風光たっぷりの場所に植樹すれば写真のように、松の盆栽風に育ちます。 第18代アメリカ大統領グラント将軍が国賓として訪れたときに、記念植樹したものだそうです。 『やはり、オフィシャルには「松」なのだ』でしょうか。 看板の英文では『・・・planted this 「Himalayan cedar」…』となっています。 『「cedar」は「杉」』。 ということは、はじめから「ヒマラヤ杉」だったようです。

 

近くの三つ池公園のヒマラヤスギやメタセコイアに興味を持ったのは、日本のような台風・津波大国には、これらの『ヒマラヤスギ』、落葉樹メタセコイア、『常緑樹セコイアは、そのどちらも深根型(直根型)で、且つ、樹間距離が小さくても巨木になりますので、防潮・防風林に向いていると思ったからです。 津波に流される小型船舶迄、ブロックできます。

 

三つ池公園のメタセコイア

樹観距離も、想像以上に小さくとれる、防風・防潮には理想的な樹木だと思って眺めていました。

 

謂れのある落葉樹メタセコイア

『当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1946年にメタセコイアであることが判明した。 これは中国四川省磨刀渓村の「水杉(スイサン)」と呼ばれたもので、「生きた化石」と呼ばれることも多い。』

 

更には、南米から日本への途上で立ち寄ったカルフォルニア州レッドウッド国立州立公園で見た常緑樹セコイアが印象的でした。

ウエブ情報から引用

世界一の樹高を誇セコイアは樹高世界1位から3位までを独占する。 平均的な大きさは樹高80メートル、胸高直径5メートル、樹齢は400年から1300年ほどで、2200年のものが現在知られる最高齢である。 厚さ30センチに及ぶ樹皮や心材の色からレッドウッドとも呼ばれる。 この樹皮と木質部はタンニンを多く含み、病原菌や白蟻の侵入を拒む。

この厚い樹皮は、他の広葉樹が燃え尽きてしまうような山火事の際にも木の内部を守る。北アメリカ西海岸に見られるセコイアの純林は、度重なる山火事によりできあがったものと考えられている。』

常緑樹セコイアが単層林で、ここまで気候変動、山火事に対応できたのは、やはり地球の奇跡です。

(記事投稿日:2022/03/11、#490)

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