今年生まれた赤ちゃんの名で一番多かったのが、男の子が「大翔(ひろと)」、女の子が「凛(りん)」であるらしい。
子どもの名の番付を行うことにさほどの意味がない程に、今の時代は親が子に授ける命名は目まぐるしいまでに多様化している。
今からウン十年前に遡るが、私が生まれた頃と言えば女の子の名前の末尾のほとんどに「子」が付けられていたものだ。「子」以外には「美」「代」「恵」で終わる名前が周囲に多かったように記憶している。
この私の本名とて例外ではなく、「子」の付く至ってありふれた名前を親から授かっている。 子どもの頃は、珍しい名前を持つ友への羨望から自分のごくごく平凡な名前が気に入らず、「何でもっとよく考えないで、こんな“手抜き”の名前を付けたのよ!」と親を責めたりもしたものである。
そんな“手抜きの名前を付けられたトラウマ”から、遠い将来産む我が子には、熟慮の上での名前を授けたい思いが子どもの頃から強い私だった。
近年目まぐるしく多様化している子どもの名前であるが、珍名、奇名をはじめ「当て字名」が増えている現状を批判する世論が横行している。
「当て字名」の例を挙げると、「宇宙」と書いて“ソラ”と読ませるなどは結構市民権を得ているようだが、最近では「一ニ三」と書いて“ワルツ”と読んだり、「七音」と書いて“ドレミ”と読ませたりする名前も出現しているとのことである。
なるほど。 確かに後者など漢字だけ見て正確に読める人は皆無であろう。しかも電算システム化が進んだ現状において、キーボード変換がしにくい等の事務手続き上からも厄介扱いされる命名であるようだ。
ここで私事に入るが、上記のごとく我が子の命名に子ども時代からこだわりがあった私が名付けた我が子の名前も、世間で言うところの「珍名、奇名」の一種であるようだ。(原語の意味合いを尊重したいがために漢字での“当て字”は避けてカタカナで命名したため、読みやすいのに加えてキーボード変換という点では一切困らないのだが…)
この我が子の名前に関しては、現在に至ってはその名前の由来ゆえに周囲に賞賛者が多く、名付けられた本人も名付け親の私としても何の問題もないどころかこの名前で得をすることが多い現状である。
ところが、我が子が幼少時から子ども時代にかけては、それはそれは苦労した。 名付け親の私の予想をはるかに下回り、我が子を取り巻く周辺社会がその名前の由来に関する認識がまったくない実態だったのである。 我が子の名がカタカナである事に対する周辺からの「どちらか(の親)が外国人ですか?」の質問には、辟易としたものだ。 元々すべての人に理解されるとは予想せずして命名したのだが、これ程までに我が子の名前の由来が一般世間で周知されていないことは想定外で、愕然とさせられたものである。
そんな周辺への対策として、やむを得ず幼少の頃から“ひらがな”表記の通称名で通してきた娘の名前であるのだが、ありがたくも娘の成長と共に娘が将来生きるであろう周辺コミュニティが移り代わりつつある現状である。
娘の名前の意味を理解でき容認してくれる周囲環境が拡大している現状にうれしく思う中で、戸籍名のカタカナ名に戻した方が娘自身が将来に渡り得策かと捉えられる今、来年からは通称名を卒業して戸籍名を復活させる予定でいる。
それにしても、名前のもたらす影響力とは子どもが成長する後々多大であると私は捉える。
子ども本人の実力に加えて、何故にそういう命名をしたかという親の意向まで見て取れるのが、(個人情報が公開されない時代における)子どもの名前なのではなかろうか。(もっと分かりやすく説明すると、親のバックグラウンドが子どもの名前から推測される時代なのではなかろうか??)
確かに珍名奇名とは、その名付けの意味を理解しない人種にとっては“愚かな親がその種の名を子どもに付けて子どもを苦しめるだけなのだから、やめるべきだ”との論理になることも理解できなくはない。
そこで問題になるのは、名付け親の我が子の命名に込める“思い入れ”であろう。
なぜその命名にしたのかの熱い思いを親が子どもに伝授し得ないとするならば、その命名は子どもを苦しめるだけの存在でしかないかもしれない。
その名を我が子に授けた親の思いを子どもと共有し得たならば、子どもが成長して命名の背景を理解できる時期が到来した暁には、命名の重さを子ども自らが受容し、誇りが持てるのではあるまいか?
「人の名」とは、記号や番号であるはずはない。
まさに“命ある名”を子どもに授ける親の責任は重い。 そして、如何なる名を子どもに与えようともその親の命名への思いはかけがえのないものであるはずなのだ。
(ギリシャ哲学から引用した)我が子の名前を、その意味を理解できない部外者から「珍名奇名」だとして蔑まれ、幼い我が子のためにやむなく長年通称名を使用せざるを得ないという苦悩を味わってきた我が家である。
それだからこそ私は訴えたいのだが、今の時代の産物として単にキーボードで変換できない等の事務的な取るに足りない理由で、親が子に込めた思いを何の関係もない周囲の他者がその命名を無責任に否定するべきではないということを、改めて認識し直して欲しい思いである。
この種の発想をする人種とは、悲しいかな人格ある「人の名」を記号番号と同一にしか捉えられないのであろう。
そうだとした上で子どもの命名に関しては、一時の思いつきではなく、親が一生責任を持てる名を子どもに授けるべきなのは言うまでもない話である。
子どもの名の番付を行うことにさほどの意味がない程に、今の時代は親が子に授ける命名は目まぐるしいまでに多様化している。
今からウン十年前に遡るが、私が生まれた頃と言えば女の子の名前の末尾のほとんどに「子」が付けられていたものだ。「子」以外には「美」「代」「恵」で終わる名前が周囲に多かったように記憶している。
この私の本名とて例外ではなく、「子」の付く至ってありふれた名前を親から授かっている。 子どもの頃は、珍しい名前を持つ友への羨望から自分のごくごく平凡な名前が気に入らず、「何でもっとよく考えないで、こんな“手抜き”の名前を付けたのよ!」と親を責めたりもしたものである。
そんな“手抜きの名前を付けられたトラウマ”から、遠い将来産む我が子には、熟慮の上での名前を授けたい思いが子どもの頃から強い私だった。
近年目まぐるしく多様化している子どもの名前であるが、珍名、奇名をはじめ「当て字名」が増えている現状を批判する世論が横行している。
「当て字名」の例を挙げると、「宇宙」と書いて“ソラ”と読ませるなどは結構市民権を得ているようだが、最近では「一ニ三」と書いて“ワルツ”と読んだり、「七音」と書いて“ドレミ”と読ませたりする名前も出現しているとのことである。
なるほど。 確かに後者など漢字だけ見て正確に読める人は皆無であろう。しかも電算システム化が進んだ現状において、キーボード変換がしにくい等の事務手続き上からも厄介扱いされる命名であるようだ。
ここで私事に入るが、上記のごとく我が子の命名に子ども時代からこだわりがあった私が名付けた我が子の名前も、世間で言うところの「珍名、奇名」の一種であるようだ。(原語の意味合いを尊重したいがために漢字での“当て字”は避けてカタカナで命名したため、読みやすいのに加えてキーボード変換という点では一切困らないのだが…)
この我が子の名前に関しては、現在に至ってはその名前の由来ゆえに周囲に賞賛者が多く、名付けられた本人も名付け親の私としても何の問題もないどころかこの名前で得をすることが多い現状である。
ところが、我が子が幼少時から子ども時代にかけては、それはそれは苦労した。 名付け親の私の予想をはるかに下回り、我が子を取り巻く周辺社会がその名前の由来に関する認識がまったくない実態だったのである。 我が子の名がカタカナである事に対する周辺からの「どちらか(の親)が外国人ですか?」の質問には、辟易としたものだ。 元々すべての人に理解されるとは予想せずして命名したのだが、これ程までに我が子の名前の由来が一般世間で周知されていないことは想定外で、愕然とさせられたものである。
そんな周辺への対策として、やむを得ず幼少の頃から“ひらがな”表記の通称名で通してきた娘の名前であるのだが、ありがたくも娘の成長と共に娘が将来生きるであろう周辺コミュニティが移り代わりつつある現状である。
娘の名前の意味を理解でき容認してくれる周囲環境が拡大している現状にうれしく思う中で、戸籍名のカタカナ名に戻した方が娘自身が将来に渡り得策かと捉えられる今、来年からは通称名を卒業して戸籍名を復活させる予定でいる。
それにしても、名前のもたらす影響力とは子どもが成長する後々多大であると私は捉える。
子ども本人の実力に加えて、何故にそういう命名をしたかという親の意向まで見て取れるのが、(個人情報が公開されない時代における)子どもの名前なのではなかろうか。(もっと分かりやすく説明すると、親のバックグラウンドが子どもの名前から推測される時代なのではなかろうか??)
確かに珍名奇名とは、その名付けの意味を理解しない人種にとっては“愚かな親がその種の名を子どもに付けて子どもを苦しめるだけなのだから、やめるべきだ”との論理になることも理解できなくはない。
そこで問題になるのは、名付け親の我が子の命名に込める“思い入れ”であろう。
なぜその命名にしたのかの熱い思いを親が子どもに伝授し得ないとするならば、その命名は子どもを苦しめるだけの存在でしかないかもしれない。
その名を我が子に授けた親の思いを子どもと共有し得たならば、子どもが成長して命名の背景を理解できる時期が到来した暁には、命名の重さを子ども自らが受容し、誇りが持てるのではあるまいか?
「人の名」とは、記号や番号であるはずはない。
まさに“命ある名”を子どもに授ける親の責任は重い。 そして、如何なる名を子どもに与えようともその親の命名への思いはかけがえのないものであるはずなのだ。
(ギリシャ哲学から引用した)我が子の名前を、その意味を理解できない部外者から「珍名奇名」だとして蔑まれ、幼い我が子のためにやむなく長年通称名を使用せざるを得ないという苦悩を味わってきた我が家である。
それだからこそ私は訴えたいのだが、今の時代の産物として単にキーボードで変換できない等の事務的な取るに足りない理由で、親が子に込めた思いを何の関係もない周囲の他者がその命名を無責任に否定するべきではないということを、改めて認識し直して欲しい思いである。
この種の発想をする人種とは、悲しいかな人格ある「人の名」を記号番号と同一にしか捉えられないのであろう。
そうだとした上で子どもの命名に関しては、一時の思いつきではなく、親が一生責任を持てる名を子どもに授けるべきなのは言うまでもない話である。