師走に入り、喪中欠礼の葉書の到着と共に、そろそろ年賀状の心配をする時期が到来している。
自分の年賀状はさておいて、先日より我が田舎の年老いた母の年賀状の作成に勤しむ私である。
母曰く、文面の印刷は業者に頼むとしても表面の宛名書きを根をつめて手書きすると持病の三叉神経痛が発症して辛い、とのことで、昨年より私が代行作製担当となり、一手に引き受けて私のパソコンで作製しているのだ。 (まんまと高額の代行作製手数料を巻き上げているから、年末のいいバイト収入になるのよ~。 ではなくて、こっちはいいと言ってるのにあっちがどうしても御礼を受け取って欲しいと言うから、仕方なく貰ってあげてるのよ~~?? )
80歳近くの高齢になって、宛名書きが辛ければもうそろそろ年始の挨拶を廃止してもよさそうにも思うが、何分年老いて独り身であるが故に“人とのつながり”を大事にしたい意向である。その思いを汲んでのせめてもの親孝行である。
さて話が変わるが、老後を如何に生き抜くかは今の時代誰しも深刻な課題であろう。
順当にいくと、この私も近い将来子どもの独り立ちと亭主の先立ちを見送った後は“独り身”となる我が余生の筋立てをもう既に想像しつつある。
長~~い独身時代を独り身で生き抜いて来ている私であるが、年老いての独り身とは、キラキラと輝かしい若かりし“我が栄光の時代”の独り暮らしとは諸条件が大きく異なることは明白な事実だ。
とにもかくにも、我が子も含めて他者の介護の世話になど一切ならずに人生を全うして終焉したい思いが強い(我が父のごとくの“突然死”が理想像!)私であるため、今から脳の老化を阻止し体力を維持すべく切磋琢磨する日々であるぞ。(その科学的な効果の程はともかく、気持ちだけでもと思ってね……)
社会学者の上野千鶴子氏は、我が独身時代に尊敬申し上げていた学者の独りでいらっしゃる。 氏の思想的背景は不明なれど、30代という若さで既に“老い”の問題に着手してきている学者であられる。
氏は特に「男性」の元気な老後の実例に詳細な見聞をお持ちのようで、“男というビョーキ”に関して最近の著書の中でも私論を展開されておられるようだ。 それによると、“男というビョーキ”とは “弱音を吐けないオレ様的生き方を指す” とのことであり、「死ぬに死ねない今日の超高齢社会では人生は長く、前半の上り坂のスキルは後半の下り坂では使えない」と著書の中できっぱりと断言しているらしい。 それを“治す”ためにはスキル的に先行する女性の知恵も援用するべき、との指摘で男性の意識転換を促しているとのことだ。
(以上、朝日新聞11月29日「書評」ページの記事より抜粋引用)
上記の上野氏の理論に従うと、原左都子もどうやら“男というビョーキ”に病む一員と捉える事ができそうなのだ。
なぜならば、まさに「弱音を吐けないオレ様的生き方」を志向する我が人生を歩んでいることを認めるからである。 ただ、“人生前半のスキルが後半では使用不可”であることぐらいはこの私とて既に認識済であるところは、上野氏が指摘する“老後男性”よりも進化し得ているのであろうか。 それにしても私に限らず今の時代は、ある程度見識のある男性は何も女性のスキルを参考にせずとて、それ位の認識力や覚悟はあると私は捉えるのだが…
こんな議論を展開できるのは、私がまだまだ若気の至り故であるからに違いない。 真に我が身体が他者の介護を要する存在に成り下がった暁には、それを望まない私は一体何をどうして生きたらいいのであろうか? そうなった暁には既に心神喪失状態であり、不覚にも他者に身を委ねるしか選択肢がない現状なのでもあろう。
今現在、既に自らその種の意思を喪失している身内を介護している知人の話を見聞するにつけ、本人と介護者双方の心身両面での苦悩を慮りいたたまれない思いに陥る私である。
我が田舎での独り暮らし高齢者の母から依頼された年賀状の“代行作製”を執行しつつ、こんな寒々とした日に自分自身の老後にも思いを馳せる原左都子である。
若かりし頃のように“輝ける”ばかりの人生を老後にも望んでいるすべはないが、自分なりに自分の老後を演出しながら人生を全うしたい気持ちは強い。
どう考察しても課題が山積みの新政権が、上野氏の望むがごとく社会システムを変革して、近い将来高齢者の生きがい対策に着手するべくはずはない。 元より、私の場合は若かりし頃からもう何十年にも及んで“自助努力”で生き抜く覚悟も重々でき上がっている。
既に老齢の域にある皆さんにとっては苦しい中にも“自助努力”で乗り越えるしかない老後の日々の生活でしょうが、どうかこの冬を乗り切って暖かい新春を迎えられますように。
自分の年賀状はさておいて、先日より我が田舎の年老いた母の年賀状の作成に勤しむ私である。
母曰く、文面の印刷は業者に頼むとしても表面の宛名書きを根をつめて手書きすると持病の三叉神経痛が発症して辛い、とのことで、昨年より私が代行作製担当となり、一手に引き受けて私のパソコンで作製しているのだ。 (まんまと高額の代行作製手数料を巻き上げているから、年末のいいバイト収入になるのよ~。 ではなくて、こっちはいいと言ってるのにあっちがどうしても御礼を受け取って欲しいと言うから、仕方なく貰ってあげてるのよ~~?? )
80歳近くの高齢になって、宛名書きが辛ければもうそろそろ年始の挨拶を廃止してもよさそうにも思うが、何分年老いて独り身であるが故に“人とのつながり”を大事にしたい意向である。その思いを汲んでのせめてもの親孝行である。
さて話が変わるが、老後を如何に生き抜くかは今の時代誰しも深刻な課題であろう。
順当にいくと、この私も近い将来子どもの独り立ちと亭主の先立ちを見送った後は“独り身”となる我が余生の筋立てをもう既に想像しつつある。
長~~い独身時代を独り身で生き抜いて来ている私であるが、年老いての独り身とは、キラキラと輝かしい若かりし“我が栄光の時代”の独り暮らしとは諸条件が大きく異なることは明白な事実だ。
とにもかくにも、我が子も含めて他者の介護の世話になど一切ならずに人生を全うして終焉したい思いが強い(我が父のごとくの“突然死”が理想像!)私であるため、今から脳の老化を阻止し体力を維持すべく切磋琢磨する日々であるぞ。(その科学的な効果の程はともかく、気持ちだけでもと思ってね……)
社会学者の上野千鶴子氏は、我が独身時代に尊敬申し上げていた学者の独りでいらっしゃる。 氏の思想的背景は不明なれど、30代という若さで既に“老い”の問題に着手してきている学者であられる。
氏は特に「男性」の元気な老後の実例に詳細な見聞をお持ちのようで、“男というビョーキ”に関して最近の著書の中でも私論を展開されておられるようだ。 それによると、“男というビョーキ”とは “弱音を吐けないオレ様的生き方を指す” とのことであり、「死ぬに死ねない今日の超高齢社会では人生は長く、前半の上り坂のスキルは後半の下り坂では使えない」と著書の中できっぱりと断言しているらしい。 それを“治す”ためにはスキル的に先行する女性の知恵も援用するべき、との指摘で男性の意識転換を促しているとのことだ。
(以上、朝日新聞11月29日「書評」ページの記事より抜粋引用)
上記の上野氏の理論に従うと、原左都子もどうやら“男というビョーキ”に病む一員と捉える事ができそうなのだ。
なぜならば、まさに「弱音を吐けないオレ様的生き方」を志向する我が人生を歩んでいることを認めるからである。 ただ、“人生前半のスキルが後半では使用不可”であることぐらいはこの私とて既に認識済であるところは、上野氏が指摘する“老後男性”よりも進化し得ているのであろうか。 それにしても私に限らず今の時代は、ある程度見識のある男性は何も女性のスキルを参考にせずとて、それ位の認識力や覚悟はあると私は捉えるのだが…
こんな議論を展開できるのは、私がまだまだ若気の至り故であるからに違いない。 真に我が身体が他者の介護を要する存在に成り下がった暁には、それを望まない私は一体何をどうして生きたらいいのであろうか? そうなった暁には既に心神喪失状態であり、不覚にも他者に身を委ねるしか選択肢がない現状なのでもあろう。
今現在、既に自らその種の意思を喪失している身内を介護している知人の話を見聞するにつけ、本人と介護者双方の心身両面での苦悩を慮りいたたまれない思いに陥る私である。
我が田舎での独り暮らし高齢者の母から依頼された年賀状の“代行作製”を執行しつつ、こんな寒々とした日に自分自身の老後にも思いを馳せる原左都子である。
若かりし頃のように“輝ける”ばかりの人生を老後にも望んでいるすべはないが、自分なりに自分の老後を演出しながら人生を全うしたい気持ちは強い。
どう考察しても課題が山積みの新政権が、上野氏の望むがごとく社会システムを変革して、近い将来高齢者の生きがい対策に着手するべくはずはない。 元より、私の場合は若かりし頃からもう何十年にも及んで“自助努力”で生き抜く覚悟も重々でき上がっている。
既に老齢の域にある皆さんにとっては苦しい中にも“自助努力”で乗り越えるしかない老後の日々の生活でしょうが、どうかこの冬を乗り切って暖かい新春を迎えられますように。