人の年齢ほど、わかりにくいものはない。
ひと昔前ならば 「お幾つですか?」 というフレーズを挨拶代わりに使用できたものだが、今の時代面識の浅い方にそんな問いかけをしようものなら“プライバシーの侵害”で訴えられかねない。
そこで、人との付き合いが浅いうちは相手の年齢を“見かけ”で判断するしかないのだが、以外や以外、付き合いが濃くなるにつれ実年齢が浮き彫りにされてくるのを実感するものでもある。
朝日新聞3月15日(月)夕刊に、“人の見かけ年齢と死亡率”との関係についての興味深い記事があった。 早速、以下に要約して紹介しよう。
昨年12月に英国医学雑誌が、実際の年齢が同じでも見かけ上の年齢が高いと死亡率も高くなるという論文を発表した。
研究はデンマークで進行中の双子の高齢者の追跡調査のデータを使って行われた。 対象者の顔写真が何歳に見えるかを看護師が推測してそれを見かけ上の年齢とし、約7年間の追跡調査で675名の死亡を確認した。 その結果、実年齢が同じでも見かけ上の年齢が1歳高くなるごとに死亡率が8%ずつ高くなった。 さらに、見かけ上の年齢が高いと、階段を上るなどの身体機能が低く、記憶力などの認知機能も低かった。
この研究の著者らは、長寿の指標となる遺伝子がほとんど見つかっていない現状において、DNA標本よりも本人の顔写真の方が高齢者の生存に関してより多くの情報を提供すると思われることを考察している。
今回の研究は70歳以上の高齢者が対象であるため、より若い世代にも結果があてはまるとは限らない点は留保が必要である。
(以上、朝日新聞記事より要約引用)
私事で恐縮だが、私の周囲には実年齢よりも若く見える私よりも年上の人々で溢れている。
より身近な身内から紹介すると、我が亭主もそうであるし、前々回の記事で紹介した(会うと喧嘩大バトルの)我が郷里の実母も見た目は若い。 そして、80歳が近い義母などは今尚女優が出来そうなほどの美しさである。 それから、私と同年代かそれ以上の世代の知り合いの皆さんも男女を問わずお洒落に凝り外見を気遣っている方々ばかりで、ご自身の社会的業績と共に外見も輝くように美しく立派であられる。
我が身内はさておいて、知り合いの方々が何故に輝くばかりに美しく立派に映るのかと言うと、それはまさに外見のみではない確固たるご自身の実績を内面に伴っているからに他ならないからであろう。
メディアが発展した今の時代においては、人間とは自己の活躍に伴う実績に平行するがごとく外的要因においても脚光を浴びるようになる。 それは、単にマスメディアに登場する有名人のみならず、一般人においても共通項であろう。
その脚光を受けてそれに対応するべく自己の外見にも気遣い、それを繕おうとするのは自然の摂理でもあろう。
ここで私論を展開させていただこう。
実年齢よりも若く見える方々とはすなわち、まずは自身の仕事やライフワークの充実なりそれに伴う実績が、外見よりも先行して確固として存在するという揺らぎない事実に後ろ盾されているからではなかろうか。
それは決して、元々外見を繕うことのみをたくらんで下手な悪徳商法に手を染めて顔にヒアルロン酸を塗りたくる等々の邪道の手段により導かれた結果ではない。 その種の軽薄さとはまったく別格の、自己の実力展開が本人にエネルギーや美をもたらし、その結果として輝きを放っているものと考察する。
一方で、今の時代は老いも若きも自己の実績云々は二の次で、外見のみを何とか繕うことにより世を渡っていこうとする人種が増殖している社会の実態であるようにも思える。
ひと昔前の時代には、こういう外見第一の自己主張とは若い世代の特権であったはずなのに、今や、アラフォー、アラゴー、アラ還等々の新語と共に、熟年層にまで“若造り”が浸透しているようだ。
その種の人種とは、外見を繕うという安易な手段で自己の未来に向けて期待感や情報発信をすることにより、何らかのフィードバックが返ってくることを期待しているのかもしれない。 たとえ“若作り”をそのような安易な手段に頼ろうとも、その“期待感”等のメッセージ性が人々の長寿をもたらすという考察もでき得るのかとも思えて来そうだ。 これも一つの“文化”と言うべきか……
そういう意味では自己の外見にこだわるという事象自体が、画期的な時代進化であるとも考察できよう。
「見かけ年齢」と死亡率との間に“正の相関関係”が実証される時代においては、高齢者の皆様もとりあえずご自身の“若き外見”にこだわるエネルギーを今一度持たれてみてはいかがであろうか。
ひと昔前ならば 「お幾つですか?」 というフレーズを挨拶代わりに使用できたものだが、今の時代面識の浅い方にそんな問いかけをしようものなら“プライバシーの侵害”で訴えられかねない。
そこで、人との付き合いが浅いうちは相手の年齢を“見かけ”で判断するしかないのだが、以外や以外、付き合いが濃くなるにつれ実年齢が浮き彫りにされてくるのを実感するものでもある。
朝日新聞3月15日(月)夕刊に、“人の見かけ年齢と死亡率”との関係についての興味深い記事があった。 早速、以下に要約して紹介しよう。
昨年12月に英国医学雑誌が、実際の年齢が同じでも見かけ上の年齢が高いと死亡率も高くなるという論文を発表した。
研究はデンマークで進行中の双子の高齢者の追跡調査のデータを使って行われた。 対象者の顔写真が何歳に見えるかを看護師が推測してそれを見かけ上の年齢とし、約7年間の追跡調査で675名の死亡を確認した。 その結果、実年齢が同じでも見かけ上の年齢が1歳高くなるごとに死亡率が8%ずつ高くなった。 さらに、見かけ上の年齢が高いと、階段を上るなどの身体機能が低く、記憶力などの認知機能も低かった。
この研究の著者らは、長寿の指標となる遺伝子がほとんど見つかっていない現状において、DNA標本よりも本人の顔写真の方が高齢者の生存に関してより多くの情報を提供すると思われることを考察している。
今回の研究は70歳以上の高齢者が対象であるため、より若い世代にも結果があてはまるとは限らない点は留保が必要である。
(以上、朝日新聞記事より要約引用)
私事で恐縮だが、私の周囲には実年齢よりも若く見える私よりも年上の人々で溢れている。
より身近な身内から紹介すると、我が亭主もそうであるし、前々回の記事で紹介した(会うと喧嘩大バトルの)我が郷里の実母も見た目は若い。 そして、80歳が近い義母などは今尚女優が出来そうなほどの美しさである。 それから、私と同年代かそれ以上の世代の知り合いの皆さんも男女を問わずお洒落に凝り外見を気遣っている方々ばかりで、ご自身の社会的業績と共に外見も輝くように美しく立派であられる。
我が身内はさておいて、知り合いの方々が何故に輝くばかりに美しく立派に映るのかと言うと、それはまさに外見のみではない確固たるご自身の実績を内面に伴っているからに他ならないからであろう。
メディアが発展した今の時代においては、人間とは自己の活躍に伴う実績に平行するがごとく外的要因においても脚光を浴びるようになる。 それは、単にマスメディアに登場する有名人のみならず、一般人においても共通項であろう。
その脚光を受けてそれに対応するべく自己の外見にも気遣い、それを繕おうとするのは自然の摂理でもあろう。
ここで私論を展開させていただこう。
実年齢よりも若く見える方々とはすなわち、まずは自身の仕事やライフワークの充実なりそれに伴う実績が、外見よりも先行して確固として存在するという揺らぎない事実に後ろ盾されているからではなかろうか。
それは決して、元々外見を繕うことのみをたくらんで下手な悪徳商法に手を染めて顔にヒアルロン酸を塗りたくる等々の邪道の手段により導かれた結果ではない。 その種の軽薄さとはまったく別格の、自己の実力展開が本人にエネルギーや美をもたらし、その結果として輝きを放っているものと考察する。
一方で、今の時代は老いも若きも自己の実績云々は二の次で、外見のみを何とか繕うことにより世を渡っていこうとする人種が増殖している社会の実態であるようにも思える。
ひと昔前の時代には、こういう外見第一の自己主張とは若い世代の特権であったはずなのに、今や、アラフォー、アラゴー、アラ還等々の新語と共に、熟年層にまで“若造り”が浸透しているようだ。
その種の人種とは、外見を繕うという安易な手段で自己の未来に向けて期待感や情報発信をすることにより、何らかのフィードバックが返ってくることを期待しているのかもしれない。 たとえ“若作り”をそのような安易な手段に頼ろうとも、その“期待感”等のメッセージ性が人々の長寿をもたらすという考察もでき得るのかとも思えて来そうだ。 これも一つの“文化”と言うべきか……
そういう意味では自己の外見にこだわるという事象自体が、画期的な時代進化であるとも考察できよう。
「見かけ年齢」と死亡率との間に“正の相関関係”が実証される時代においては、高齢者の皆様もとりあえずご自身の“若き外見”にこだわるエネルギーを今一度持たれてみてはいかがであろうか。