原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

いつから大人になった?

2017年01月25日 | 自己実現
 今回のエッセイは、2本前に公開した「誰が“いい子”で、誰が“悪い子”?」の続編の形となろうか。

 上記のバックナンバーは、現在NHKにて放映中の連続ドラマ「べっぴんさん」を取り上げた内容だが、冒頭から当エッセイの一部を振り返らせて頂こう。
 相変わらず「キアリス」の仕事に翻弄され続けている主人公すみれは、思春期を迎えている娘さくらの深層心理にまったく気付かない。
 片や、自分には構ってくれずあくまで仕事優先の両親に対し心に影を落としつつも、表面的に“いい子”として振る舞うさくらに対し、すみれは「さくらは本当に“いい子”に育ってくれて助かるわ」と褒めつつ、一切の会話の機会を持とうともしない。
 これにとことん心が痛んださくらは、友人に誘われるがままにジャズ喫茶「ヨーソロー」へ出向く。
 この行動が、結果としてさくらの痛んだ心理状態を救う事となる。
 さくらはその場で良き出会いに恵まれる。 特にドラマーの次郎が気に入ったらしきさくらは、次郎が出演するナイトクラブへ綺麗な化粧とドレス姿に変貌して出没する。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2本前のバックナンバーより一部を引用。)


 その後のドラマで、母娘両者間で多少の動きがあった。

 ついに娘さくらは家出を決行し、叔母のゆり宅に身を寄せる。 その間も次郎が気になるさくらはジャズ喫茶「ヨーソロー」へ顔を出し、次郎の上京が実行に移されそうな事を知る。 そしてついに本日の放送では、さくらが “高校(女学校?)を退学して今すぐに東京へ行きたい” 旨をゆりに伝える。

 片や母のすみれ側も、ヨーソローのママ等々と話すうちに、自身の見識の狭さに遅ればせながら気付くのだが、娘さくらに如何に接してよいのか方策が見出せず、未だにさくらと話し合う気になれないでいる。

 そんな折にすみれの口から出たのが、表題の「(自分自身が)いつから大人になったのだろう?」との言葉だ。

 一旦、原左都子の私見に入ろう。

 確かに、人間がいつ大人になるのか? とは難しい論題だ。
 結婚して子供が生まれたから大人になる?、などと短絡的に単純に片付けられる訳もなかろう。
 そして最低限その解答は “人それぞれ” であるべきだし、多様性を孕むものでもあろう。

 ただそういう論題が主人公すみれの脳裏にふと浮かんだ事自体、母として成長できそうな予感がする。 そしてその解答をすみれ自身が模索して初めて、娘さくらの成長とも直に向き合えそうな気もする。

 私の希望としては、(前々回も結論として述べたが)さくらには思い切って次郎を追っかけ上京し、新たな目標に向かい自己実現をして欲しいものだが…
 それにしては、「ヨーソロー」の従業員 かおり(だったかな?)が言う通り、さくらはあらゆる面でポリシーが無さ過ぎる。 親不在の成長期に於いて、一人の時間を有効利用してもっと自分の将来を見つめるべく考え行動しておくべきだったのに、その努力を怠り、適合力に欠けつつも女学校へ惰性で通っているだけだ。 かおり曰く、「上京して暮らすにはお金も要るし、一体どうする気なの? さくらはお嬢さん育ちで考えが甘いよ。」
 実に、かおり発言に100%同感の私だが…… 

 結局、さくらは“お嬢さん”気質を活かし、今後もその分野で生きるしか未来が無いのだろうか??
 今後のドラマの成り行きを見守ろう。


 さて、せっかくNHKドラマより“論評に値するテーマ”を頂いたので、ここで原左都子自身が一体いつ“大人になったのか?” に関して分析してみよう。

 結論から記すと、まだ “道半ば” といったところだろうか?? 

 そうだなあ。 ひとつの転機として、単身上京した事が挙げられそうだ。
 私の場合さくらとは大きく異なり、決して“お嬢さん”人生を歩んでいない。 さくら同様の高校に所属し周囲に“お嬢さん連中”が大勢存在する環境下で、私は虎視眈々と職業人としての未来を目指していた。
 その後、郷里にての学生時代を謳歌した後、私は自らの意思で上京し郷里を去った。
 最初からある程度集中して学業に励み国家資格を取得し専門職社員として民間企業へ就職したとの経歴のため、その職場で真面目に頑張れば経済面では保障されていたようなものだ。
 上京当初はその経済的安定に安穏とキャピキャピはしゃいで過ごしていた時期であり、そういう意味では、決して“大人になった”との表現は相応しくないと自己分析する。

 結婚・出産ねえ。 これも、私にとっては遅ればせながらもあくまでも一つの人生の選択肢の位置付けで執り行ったイベントであるため、これにより「大人になった」との実感は全く無い。


 ただ、一つ言えるのは、私は娘の“子育て”に於いてサリバン先生の立場で全身全霊を傾けたとの自負があるのだ。
 娘を産んで以降23年間の長き年月に渡り、一貫して我が娘の成長を願いつつ最善の行動を取って来た。
 その結果として、曲がりなりにも昨春には娘の社会人としての就業が叶い、今も職場に迷惑をかけつつも日々真面目に仕事に励む娘だ。

 と言う訳で原左都子が大人になれたと感じるのは、娘の教育指導に関して“サリバンとして全力投球出来た事”と結論付けられそうに思うのだが……。

 いえいえ、私には実現出来ていない課題が盛沢山ある。
 その一つとして、娘が近い未来に職場から解雇されるとの予期せぬ非常事態発生も視野に入れ、私が率先して対応せねばならないであろう。

 まだまだ乗り越えねばならない課題が盛沢山の私の場合、未だ大人になり切れない気分だ。

 だが、もしかしたら人生終盤まで切実な課題を抱え、それに対応し続けられる事が可能な人間こそが、最終的に「大人になれる」ような気がしないでもない。