(写真は、昨日映画館にて見たディズニー映画「マレフィセント2」の新聞広告より転載したもの。)
大変失礼申し上げました。 題名のみ決定して「下書き」処理したつもりが、すっかり公開されていたようです。
題名のみで、既に「いいね!」を頂戴しているようで誠に申し訳ございませんが… (題名にインパクトがあったとすれば素人エッセイスト冥利に尽きますし、確かに「題名」こそがエッセイ本文内で言わんとする主題の半分以上は語るべきものと、自分でもいつも心しております。)
とりあえず写真を公開致しました。 午後になりましら更なる「いいね!」を頂けるべく当該「映画レビュー・オピニオンエッセイ」を力強く!綴りますので、どうかもうしばらくお待ちいただけますように。
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午前中は、大変失礼致しました。 決して“フェイントをかけた”訳でも何でもなく、単なる私の(老化現象に伴う?)ミスにより、表題のみを先行公開してしまったとのいきさつでした。
さて、昨日見た映画「マレフィセント2」だが。
これは写真内にも書かれている通り、「眠れる森の美女」の“新たなる伝説”を描いた実写作品だ。
私は昨冬、同じくディズニー制作の「くるみ割り人形実写版」を見て、本エッセイ集内にそれに対する(マイナーな)感想エッセイを公開している。
2019.12公開の「映画版“くるみ割り人形、クラシック芸術を冒瀆していないか!?」の一部を以下に引用させていただこう。
名作古典童話の映画化はよくある。 例えばこの私も昨年は「美女と野獣」、それよりもっと以前に「白雪姫」を映画館にて見た。 それらに比しクラシックバレエ古典名作の映画化とは、私が知る限りではこれが初めてではなかろうか?
映画「くるみ割り人形……」に関する情報は、事前に冒頭写真の新聞広告やネットでの宣伝動画等により得ていた。
今回の映画「くるみ割り人形」はディズニー社制作によるものだが、あくまでも映画館興行用に“娯楽作品”として制作された事実に関してはもちろん把握して出かけたものの…。
映画冒頭でいきなり チャイコフスキー作曲「組曲 くるみ割り人形」小序曲が流れた時には、目頭がウルウルした。 というのもクラシックバレエのみならず舞台公演に於いては、誰しも開演前から観客の皆さんは期待満載であろう。 内面から溢れ出る感動を抑えつつ開幕を待つものだ。 それ故に「くるみ割り人形」のみならず、全ての舞台に於いて小序曲の果たす役割とは絶大であろう。 ところがどうしたことか、(私に言わせてもらえば)最低限この「小序曲」に関しては全曲を流すべきなのに、なんと映画版は途中で名曲をブチ切り場面を変えてしまったのだ。 (これ、クラシックバレエファンにとってはあり得ない)作曲家チャイコフスキー氏に対する侮辱と捉えた。
その後もこれの繰り返しだ。
例えば我が娘がクララの友達役で舞台で踊った「行進曲」しかり。
私が好きな「ロシアの踊り(トレパーク)」「アラビアの踊り」「足笛の踊り」「雪の精の踊り」そして、何と言っても舞台メインの「花のワルツ」までをも、映画版では偉大なるチャイコフスキーの楽曲すべてを途中でブチ切ったり、映画ストーリーに合わせて断裁して使用しているのだ! この事実こそが、クラシックバレエ舞台ファンにとってはアンビリーバボー! でしかない。
バレエの踊りに関しても。 確かに、おそらく米国のプロバレエダンサーと思しき人物達が素晴らしい踊りを披露する場面もあった。
特に映画が終焉たした後に、「金平糖の踊り」を流しつつ踊りを少しコンテンポラリーにアレンジしたがごとくのダンスが比較的長時間上映された。 (これが、クラシックバレエを比較的まともに取り上げた“唯一の”場面だったと言えよう。)
いや確かに、「芸術」であるクラシックバレエと「娯楽」位置付けの映画との間には今尚埋められない溝が存在することであろう。 ただ熊川哲也氏など若くしてその「溝」を埋めようと、以前より努力しておられる人材だろう。 今回の予告編でも、熊川氏による「クラシックバレエ」映画化チャレンジ風景を拝見した。 というよりも、熊川氏はご自身が主催されているバレエ団舞台の「映画化」を既に実現済みだ。
私が素人感覚で思うに。 舞台と映画との一番の “埋められない格差” とは、その「鑑賞料金」ではあるまいか? その格差とは、実際問題数倍以上の開きがあろう。
娯楽である映画が何を制作しようと自由なのはもちろんのこととして。 常にリアルタイム勝負の舞台芸術と、幾らでも編集作成可能かつ世界中へ配信可能な映画を一緒くたにした挙句。 特にクラシックバレエとの古典芸術に及んでまでチャイコフスキー古典名曲を途中でブチ切りつつ、あくまでも“出来上がったフィルムを再現すればカネになる”映像との手段で、安易に映画制作公開している事実に異議申したい!
(以上、我がエッセイ集2019年12月公開のバックナンバーの一部を引用したもの。)
実は昨日、映画「マレフィセント2」を見るに際し上記同様の懸念を抱きつつ出かけた。 (これまたチャイコフスキーの名曲を途中でぶち切ったり、中途半端なクラシックバレエシーン映像を流すのだろうな……)
ところがどっこい、その予想は120%勘違いだった。 もっとずっと酷い内容だったのだ!
チャイコフスキーもクラシックバレエもその欠片もない映画だった。 それはそれで良いだろう。 上記のごとく中途半端にそのシーンを入れたものならば、必ずや私同様クラシックバレエファンから非難轟轟の結末となろう。
この「マレフィセント2」が如何なるジャンルの映画だったかと言うならば。 まさに「戦争映画」だったのだ! いや、如何なる童話や物語であろうが、必ずや「争い」や「闘い」の場面を敢えて入れ、起承転結を描くものである事はこの私も重々理解できている。
それに比しこの「マレフィセント2」は、私に言わせて貰うと全体の8割が「戦闘場面」だったと結論付けても過言ではない。 登場人物や怪物・妖精たち総動員で“殺戮武器”を使用しての戦い大バトル場面を繰り広げた。
この映画、もしかしたら私同様にクラシックバレエファンも多く見に行くかもしれない。 昨日は公開初日で観覧者が少なく、学校が休みでないため一人として子供の姿を見かけなかったのが幸いだったが。 本日より休日だ。 これを利用して、親子連れでこの映画を楽しむ家庭も多いかもしれない。 年端もいかない子供達がこの映画を見るのかと思うと、何とも忍びない……
そう言えば、近い過去に見た「ドラえもん映画」も戦闘場面が多かった。 ドラえもんの超能力を戦争の武器として利用した描写に、私は批判的エッセイを綴り公開している。
近頃の映画制作とは、たとえ子供向きのメルヘン作品であろうが、「武器を使用した戦闘場面」を描かずして興行収入が成立し得ないのだろうか?
そんな時代に移り果てている末恐ろしさを垣間見せられた、昨日の我が映画観賞だった。
どんな出逢いをするか
どういうめぐり逢いをするか
それが大事なんだなあ
絶対の人との出逢い
その人の前にでると
絶対にうそが言えない
そういう人を持つといい
・・・とつづき
一生に一人でいい
そういう人を持つといい
で終わります
相田みつを、私も是非読みます。
人との出逢いって、いつも劇的で奇跡的です。
今回私が綴った青春の一ページは、“腕”から入った出逢いです。 若かりし時代の忘れられない思い出です。 ひとつひとつの出逢いをいつまでも大切に心の中で暖めていたいと思います。
今は、ああいうお店がまったくないね。 古き良き時代だよね。
私はもうここ20年以上、六本木で飲んだことはないよ。スクエアビルなんてまだあるのかね?向こうのお店ってSでしょ。あそこはもう20年前に既につぶれてたよ。でも、確かに懐かしいね。今はどこへいってもチェーン店が多くて同じような店ばっかりだもんね。昔の六本木らしさなんてないね。
新宿だってそうだし…。なんで、どこもかしこも個性のないこんなにつまらない時代になったんだろうね。