◎山県有朋は明倫館で学ぶことができなかった
明治の元勲と呼ばれた山県有朋〈ヤマガタ・アリトモ〉は、短期間であるが、松下村塾で学んでいる。しかし、長州藩の藩校である明倫館で学んだことはなかった。
少し、山県有朋の生い立ちを見てみよう。山県は、代々、「蔵元附中間」〈クラモトヅキチュウゲン〉という軽輩の家に生まれている。代々といっても、「世襲」ではない。軽輩の身分は、原則として一代限りであって、世襲が認められていたわけではなかった。これも、士分(武士階級)と異なる点である。
山県は、伊藤博文のように、十代のうちから尊王攘夷運動にかかわっていったわけではなかった。彼は、長く軽輩としての職掌に励み、尊王攘夷運動に加わったのは二十代になってからである。その意味では、早熟の伊藤などより、はるかに苦労人であった。後に、元勲として、伊藤博文とは異る政治姿勢、政治手法を示すことになるのも、蓋し当然というべきだろう。
山県有朋が生まれたのは、天保九年(一八三八)、伊藤よりは三歳年長である。出生地は、萩川島庄、橋本川のほとりである。幼名は辰之助、十八歳の時、小助と改めた。父は、山県三郎有稔〈アリトシ〉である。
辰之助が三歳の時、母・松子が病死、以後は祖母の手で育てられたという。この祖母は、のちの慶応元年(一八六五)に、橋本川に身を投じて自殺している。自殺の理由は不明である。投身の際に、山県が京都で購入して贈った「ちりめん」の着物を付けていたという。
辰之助は、嘉永六年(一八五三)、一六歳にして、藩校である明倫館の手子〈テコ〉となった。入学したわけではない。明倫館において、「抱関撃析」〈ホウカンゲキタク〉(門番・夜警)といった雑務を担当したのである。
辰之助は、明倫館で働くことはできたが、そこで学ぶことはできなかった。言うまでもなく、士分ではなかったからである。辰之助は、少年時代から、武術で身を立てようと決意し、激しい修練もしていた。その彼が、文武の名門である明倫館で学べなかったのである。その悔しさは、想像するに余りある。
当時、辰之助の家の裏にいちじくの大樹があった。彼は、毎朝、槍でこの大樹を突き、ついにこれを枯死せしめたという。明倫館で学べないウラミがここに噴出したというべきか。なお、彼がいちじくを突いていた頃の住居というのは、恐らく、後に「汲月庵」と称せられることになった建物のことだろう。辰之助の家族は、嘉永から安政にかけて、ここに住んだとされる。辰之助、十代後半のころである。
山県有朋旧居「汲川庵」は、戦前までは、萩町川島小橋筋三四八番地に保存されていた。坪数わずかに四坪。のちに、二万坪の庭園を誇る「椿山荘」の住人となる山県有朋の原点は、この四坪の小住宅にあったというべきか。
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