◎錦旗(錦の御旗)は、太陽・太陰の一対
昨日の続きである。武田勝蔵著『宮さん宮さん』(武田勝蔵、一九六九)の「前編」の「一、菊と葵」から、「錦旗」に関わる部分を引用する。
錦旗の東進と熾仁親王の大総督志願の真相 一方京都では薩州側の強硬な主張で「慶喜は謹慎するも其の罪は重く、捕えて死罪に処すべし」と、東征軍の進発となった。しかしその大総督の人選に若干の日時を要していた。この時、総裁〔有栖川宮〕熾仁親王には自ら進んで其の大任を希望されていたところ、朝議では海内〈カイダイ〉に勢望ある皇族としては親王をおいては他に求めることが出来ぬと、二月九日総裁のまま、東征大総督を拝命されることとなった。これが史上にいう東征大総督宮であり、トコトンヤレ節の「宮さん」である。時に三十四才。
そこで同月十五日、出陣にあたり参内〈サンダイ〉あって明治天皇より錦旗節刀を親授され、直ちに三軍を率いて道を東海道にとり、江戸に進発されたのである。
この錦旗は官軍の印であり、赤錦織で幅約二尺、長さ一丈余で一対あり、その一つは上部に金具で金色の太陽が、他の一つには同じく銀色の太陰(月)が表裏につけられて、軍隊の軍旗と同じで、旗手というべき錦旗奉行穂波経度〈ホナミ・ツネノリ〉、河鰭実文〈カワバタ・サネフミ〉の両人がお預りして部下数名が捧持したのである。ついでに官軍の印として左肩にある方約三寸の「錦ぎれ」はこの錦旗と同じきれで、裏は白布で「大総督府」の朱印が押してある。よく当時、官軍であったという家に残っている。
また、節刀は黄金で飾った名刀で、征討将軍の印に賜う太刀である。両者は戦が終ると返上してその任務が解かれることとなる。熾仁親王も明治元年十一月二日東京の皇城で返上されている。世間一般では錦に菊花章の刺繍などしてあるものを錦旗といっているが誤〈アヤマリ〉で、これは軍に随った各藩が許可を得て各自で造ったものである。【以下略】
文中、「総裁熾仁親王」とあるが、この総裁とは、いわゆる維新の三職(総裁・議定・参与)のトップ、つまり維新政権の最高責任者という地位である。有栖川宮熾仁親王は、東征にあたって、総裁と東征大総督大総督を兼務したのである。
品川弥二郎の話は、まだ終わっておらず、またトコトンヤレ節についても、追記したいことがあるが、とりあえず次回は、話題を変える。
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