◎品川弥二郎の産業政策、その老農好み
村田峯次郎の『品川子爵伝』(大日本図書、一九一〇)は、本文だけでも七二三ページもある大冊で、まだ通読してはいない。品川弥二郎が水戸黄門の美談を踏襲した話が、この本に載っていることは、奥谷松治〈オクタニ・マツジ〉の論文を読んで知ったのである。
奥谷松治の論文というのは、彼が『経済評論』の一九三五年(昭和一〇)一二月号に載せた論文「品川弥二郎の産業政策」のことである。
奥谷松治(一九〇三~一九七八)は、社会運動家にして、すぐれた農業史研究家であった。二宮尊徳や品川弥二郎の研究でも知られている。
右論文において、奥谷は、品川弥二郎が官僚政治家として産業政策を推進したこと、それを支えた思想が「封建的復古主義」あるいは「老農主義」であったことを強調している。以下は、同論文の八〇~八一ページから引用。
三、農商務省に於ける品川弥二郎の産業政策
『子爵品川弥二郎伝』〔ママ〕(村田峯次郎著)に依ると、品川は、明治十四年〔一八八一〕第二回内国勧業博覧会が開かれるや其〈ソノ〉事務長となり、同年大日本農会が創立されるや其幹事長となり、翌年〔一八八二〕大日本山林会の創立には、創立委員長となり、又同年創立された大日本水産会には幹事長となり、其外〈ソノホカ〉農商務省の政策に基いて行れた事業には、総て重要なる地位に就任してゐる。これ等の事実を観ると、斯〈カク〉の如き諸事業が彼の方針に基いて遂行された如く観られるが、併し乍ら、農商務省の基礎が、大久保利通より前田正名〈マエダ・マサナ〉へ、一貫する明治政府の方針に基くものである事実に依つて、右の見解は表面的な観察に過ぎざるものであることが実証される。唯品川は、前田が農商務省大書記官であつたのに封して、農商務省少輔、同大輔等、前田よりは、重要の官位にゐた関係上多く表面的に活躍したのであらう。次に品川の創意に基くものと観られる事業を挙げて、之に就て考察を加へることにする。
明治十三年〔一八八〇〕の秋、品川は内務少輔兼勧農局長の任にありて、福島県下の対面ケ原、猪苗代及び栗子獄等の開墾地巡視の途次、中村〔相馬中村〕に至り、特に二宮尊徳の墓に参詣し(註一)、且つ当時中村に居た尊徳の門人富田高慶〈トミタ・コウケイ〉を訪ひて〈オトナイテ〉、中村藩に於ける開墾殖産の事蹟を尋ねた。同年冬、富田高慶が正七位に叙せられ、且つ二宮富田両家に宮内省より恩賜金を贈られたのは、品川の奏聞〈ソウモン〉に原因すると云ふ(註二)。
註一 中村にあるのは尊徳の墓ではなく、尊徳の息尊行〈ソンコウ〉の墓ではないかと思はれるが『子爵品川伝』(同書四五五頁)の記述に従つて置く。
註二 前掲『子爵品川伝』四五五頁参照。
右の事実は、簡単な一事に過ぎないが、品川の産業政策を観るに軽々に見逃してはならない。其後、明治十六年〔一八八三〕には、静岡県下に於て報徳社運動に従事しつゝあつた福山瀧助〈フクヤマ・タキスケ〉をわざわざ東京に招いて其道を尋ね(註一)、又同十八年〔一八八五〕二月、尊徳の伝記である富田高慶の著書『報徳記』を宮内省に乞ひて其許可を受け(註二)、農商務省に於て之を再版して広く有志に頒布し、更に同年八月、大日本農会に於て同書を刊行して一般に発売した。其外、同年岡田良一郎起草の大日本報徳社草案中の一部分町村報徳社草案を、農商公報号外として頒布した。之も品川の創意に基くものであつた(註三)。以上の事実は、明治十八年五月に公布された前掲『済急趣意書』の起草が如何なる人の手になつたかは別問題として、其内容の封建的労働強化、消費節約の政策即ち尊徳の報徳主義の焼直しに過ぎないものである事実と、品川の産業政策との間には深い関連のあることを認めざるを得ない。
註一 福山瀧助翁伝『大日本帝国報徳』第十五号に拠る。(明治二十六年〔一八九三〕五月刊)
註二 『報徳記』は、明治十六年十二月、宮内省に於て出版され、有司に特別に頒布されたものであつたから、其再版は宮内省の許可を受けねばならなかつた。(『大日本農史今世史』参照)
註三 『品川先生追懐談集』三八頁、東浦庄治著『日本産業組合史』一〇五頁に拠る。
猶、品川の封建的懐古主義は、単に尊徳との関係のみでない。彼の伝記に依ると、毛利重就〈モウリ・シゲナリ〉、上杉鷹山〈ウエスギ・ヨウザン〉、佐藤信淵〈サトウ・ノブヒロ〉等を説き、又、関根矢作、林勇蔵、大田金十郎等の農功を称揚し、中村直三〈ナカムラ・ナオゾウ〉、船津伝次平〈フナツ・デンジベイ〉、林遠里〈ハヤシ・エンリ〉、鈴木久太夫〈スズキ・キュウダユウ〉等の老農と交りを結びて之を励す等々、彼は所謂老農主義の鼓吹者であつた。伝記に収録された彼の著作の大半が、老農の伝記の序文或は老農表彰の碑文で満ちてゐることも、品川の思想傾向及び其等との交渉の深かつたことを物語るものである。猶、この間の消息を窺ふに足る一挿話を伝記より引用しよう。【以下略】
このあと、『品川子爵伝』から、品川が水戸黄門の美談を踏襲した話が摘録されるが、この話は、昨日のコラムで紹介したので、省略する。
文中、「対面ケ原」という地名が出てくるが、〈タイメンガハラ〉と読むのであろう。今日の「対面原」〈タイメンハラ〉のことであろう。また、「栗子獄」の読みは、〈クリコダケ〉か。今日では「栗子山」という呼称が一般的なようである。【この話、さらに続く】
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