◎研師としての柏木隆法氏
今月一四日のコラム「地方のどこに創生の余力があるか」では、柏木隆法氏の個人通信「隆法窟日乗」のうち、「10月6日」の項を紹介した(通しナンバー183)。すると、その数日後に、また郵便が届き、そこには「10月6日」の項の後半部分が含まれていた(通しナンバー184)。
本日は、その「後半部分」にあった文章を紹介させていただきたい。
先日テレビを見ていたら刀剣の砥師〈トギシ〉の一家の事をやつていた。勿論、現在の砥師のことである。拙も研ぎについては居合を習っている頃、教えてもらった。戦国時代は戦いに行くとき自前の砥石を持って参戦していた。京都の洛北鷹峯〈タカガミネ〉の本阿弥光悦〈ホンアミ・コウエツ〉も本業は研師であり、秀吉の懐刀といわれた曽呂利新左エ門(伴内)は鞘師〈サヤシ〉であった。矢羽師〈ヤバネシ〉、鏃師〈ヤジリシ〉など武器に関する専門的な技師が武将の周辺にいて彼らは政治的なアドバイザーにもなっていた。拙はその故事に習ったわけではないが、刀を抜いて大見栄をきる主役が錆刀〈サビガタナ〉や刃毀れ〈ハコボレ〉のある刀で見栄をきられれば興覚めになる。勝新太郎は殺陣〈タテ〉でよく真剣を使っていた。あの座頭市の仕込み杖も常時20本くらいあり、そのうち4本は真剣であった。『人斬り』の時だったが、色町の弁柄格子〈ベンガラゴウシ〉を斬るシーンで勝は本身の刀を使いたいといいだした。二人の侍を一瞬に斬るシーンだが、斬られ役の刀も板壁を突き抜ける。文字通り命がけの撮影である。二人は暁新太郎と横堀秀勝だった。どちらもベテラン中のベテランで勝より芸歴は長い。小道具として用意された勝のものは相州ものの新新刀、暁は刃渡り二尺三寸の現代刀、横堀は末古刀〈スエコトウ〉を使うことになっていた。斬る方、斬られる方、共に真剣の殺陣という撮影は珍しい。殺陣師と綿密な打合せの上で刀身の長さも計算に入れて、小道具を選び本番に臨んだ。監督の五社英雄も夜中にダメ押しにやってきた。横堀の刀は高橋修司からの借り物で名刀だったが、錆が浮いていたために拙が研いだ。これが大映の古き良き時代だった。【中略】これ以降、拙の趣味もあって刀剣を研ぐようになった。拙が病気で倒れるつい10年前まで知人の刀を研いだり和鏡〈ワキョウ〉を磨いたりした。今はもう体力がないのでおことわりしている。研がなくなったもう一つの理由に良質の砥石が入手できなくなったことである。一つは京都の鳴滝砥〈ナルタキト〉で奥嵯峨鳴滝にのみ発掘される砥石で仕上げに使う。もう一つは愛知県豊川の奥、鳳来寺で産出される名倉砥〈ナグラト〉である。この二つは人工砥では代用できないので研師などは苦労している。柄の朴材〈ホオザイ〉も板目が揃ったものがなかなか入手できない。鮫皮もワシントン条約で輸入できない。ごく偶〈タマ〉に水牛の角〈ツノ〉や象牙などを使うが、これも古い置物の壊れたものを入手している。下げ緒の真田紐〈サナダヒモ〉も特注で作る。鞘の塗りは拙の技術ではできないので、長野県奈良井の木曽漆器の塗師〈ヌシ〉に依頼している。拙も体力がなくなったために短刀や脇差のような短いものに限っている。
柏木隆法氏の多芸多才については、もちろん存じ上げているが、刀剣の砥師(研師)もやっておられたとは知らなかった。それに、文章を読むと、刀剣の拵え(外装)まで手がけておられることがわかる。一口に形容できない大変な方で、そういう方と、わずかとはいえお付きあいがあり、こうして個人通信をいただいていることを誇りに感じている。
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