◎革命歌としての「トコトンヤレ節」
「宮さん宮さん、お馬の前に、ヒラヒラするのは何じゃいな/トコトンヤレ、トンヤレナ/あれは朝敵、征伐せよとの、錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレ、トンヤレナ」で知られる「トコトンヤレ節」は、品川弥二郎が作詞したとされている。京都大学電子図書館の「品川弥二郎」の項の末尾にも、品川弥二郎は、「トコトンヤレトン節」の作詞者でもある、とある。
インターネットの記事には、「とことん」(「徹底して」の意)の語源は、「トコトンヤレ節」だとしているものがあるが、今、その当否については、判断を保留する。
一昨日のコラム「品川弥二郎の出自」では、京都大学電子図書館の「品川弥二郎」の項を、途中までしか引用しなかった。それ以降の部分を、次に引用する。
同年〔文久三年=一八六三〕2月上京したが、八月の政変のため帰国した。
元治元年〔一八六四〕6月上京し、7月の禁門の変には八幡隊〈ハチマンタイ〉隊長として戦ったが、敗れて帰国し、8月御堀耕助〈ミホリ・コウスケ〉らと御楯隊〈ミタテタイ〉を組織した。
慶応元年〔一八六五〕12月木戸準一郎(孝允)に従って変名して上京、薩摩との提携に尽し、国元と京都間をしばしば往復し、幕府の情勢の偵察及び薩摩と長州の連絡の任に当った。
慶応2(1866)年の薩長同盟提携では、人質として薩摩藩邸に留まった。
同3年〔一八六七〕4月三十人通りに昇格し、10月大久保一蔵(利通)と岩倉具視に会い、錦旗調製のことを託されるとともに、討幕の密勅を奉じて広沢兵助〔真臣〕らと山口に帰った。11月急ぎ上京し、世良修蔵〈セラ・シュウゾウ〉と有栖川宮〔熾仁〕に時務条議七箇条を建議した。
明治元年〔一八六八〕10月整武隊参謀として奥羽に出陣、翌年4月渡島国に転戦、7月山口に凱旋した。
同2年〔一八六九〕12月明治政府に召出され弾正少忠となり、翌3年〔1870〕3月脱退暴動鎮撫方不行届の罪で一時逼塞を命ぜられた。同年6月退職し、明治3(1870)年8月普仏戦争視察のため、欧州へ派遣され、仏英独に滞在し、農政や協同組合も調査した。また、在独公使館に勤務した。
9年〔一八七六〕3月帰朝後京都に尊攘堂を設立し(※)、6月には内務省に転じて宮中顧問官となった。
同年〔一八七六〕萩の乱、翌10年〔一八七七〕西南戦争鎮圧に尽力。同14年〔一八八一〕農商務省で殖産興業に努めた。同15年〔一八八二〕協同運輸会社設立を援助したが、過当競争で失敗。同17年〔一八八四〕子爵。同18年〔一八八五〕駐独日本公使。同20年〔一八八七〕帰国後宮中顧問官、22年〔一八八九〕御料局長官を兼任、皇室財産を確立した。
同24年〔一八九一〕6月第一次松方〔正義〕内閣の内務大臣となり、信用組合法案を第2議会に初提案。翌25年〔一八九二〕3月第2回総選挙における民党への選挙干渉指揮で引責辞職。その後、枢密顧問官に任ぜられたが、同年6月退官して西郷従道〈サイゴウ・ツグミチ〉、佐々友房〈サッサ・トモフサ〉らと国民協会を組織し、ついで同副会長となった。国民協会は対外硬派の運動などで実績があったが、日清戦争後低迷し、明治32年〔一八九九〕解散。
この年〔一八九九〕枢密顧問官に復帰したが、翌年〔一九〇〇〕肺炎のため東京で病死した。年58。
なお、品川は渡欧中に研究した信用(協同)組合の設立奨励に尽力したことでも知られており、吉田松陰遺稿の出版、維新の殉職者顕彰、中小の商工業者の事績の記録保存にも熱心で、「トコトンヤレトン節」の作詞者でもある。東京九段に銅像。
慶応三年(一八六七)一〇月、「錦旗調製のことを託される」とあるが、この「錦旗」が、「お馬の前にヒラヒラする」ところの「錦の御旗」である。すなわち品川弥二郎は、錦の御旗を調整すると同時に、「トコトンヤレ節」の歌詞も調整したということである。
錦旗=錦の御旗の発案者が誰であったかは知らないが、トコトンヤレ節を発案したのは、品川弥二郎であると考えて、ほぼ間違いないだろう。錦旗が「革命旗」であるとすれば、トコトンヤレ節は「革命歌」である。革命に、旗と歌はツキモノである。これは、フランス革命を見てもわかる通り。品川弥二郎は、あるいは、「ラ・マルセイエーズ」を意識していたのかもしれない。
ちなみに、「宮さん」とは、みずから東征大総督を買って出た急進派公卿・有栖川宮熾仁〈アリスガワノミヤ・タルヒト〉を指すと言われている。
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