礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

品川弥二郎と古橋源六郎暉皃

2014-10-17 03:09:24 | コラムと名言

◎品川弥二郎と古橋源六郎暉皃

 奥谷松治の論文「品川弥二郎の産業政策」(一九三五)によって、品川弥二郎という官僚政治家が、明治中期の産業政策をリードしていた事実を知った。同時にまた、彼が二宮尊徳の再評価、あるいは報徳運動の推進のために、政治力を行使していた事実も知った。
 本年八月、私は、『日本人はいつから働きすぎになったのか』という本を上梓し、その中で、明治中期に二宮尊徳が再評価されたことを指摘した。しかし、品川弥二郎による関与について触れなかった。今、このことを遺憾とする。奥谷の前掲論文に気づかなかったのである。
さて、先月二九日の所信表明演説で、安部晋三首相は、三河稲橋村の篤農・古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉について言及した。
 品川弥二郎は、この古橋源六郎暉皃と交流があった。「老農主義」(老農好み)の品川弥二郎は、全国の老農と交流を結んでいたが、そのひとりに、古橋源六郎暉皃もいたというわけである。
 BE AN INDIVIDUALさんのブログに、古橋源六郎暉皃の子息である古橋源六郎義実〈ヨシザネ〉が書いた文章が紹介されていた(「源六郎」は世襲名)。以下に、それを転載させていただく。雑誌『斯民』の第三編第二号(明治四一年=一九〇八年五月七日)に掲載されたもので、読みやすくするために、若干原文を直してあるという。

「富田高慶翁と西郷南洲翁」  古橋源六郎〔義実〕 
 私の父〔暉皃〕が民力を発達させるには、殖産にあるといって苦心してやりましたので、私もその志を継いでやりましたが、一体ならば金ができるに随って、民心がよくならなくてはならぬのに、かえって貧乏の時よりも悪くなりました。これでは仕方がない。「衣食足って礼節を知る」という古語があるが「衣食が足るほど、人心が悪くなる。どうしたらよかろうといって、親子して苦しみぬきました。
 その結果これは二宮尊徳翁の報徳社を立てたらよかろう。それについては誰かを頼まなければならぬが、誰がよかろうかと彼がよかろうかと、いろいろ相談をしました。岡田良一郎さんは父と私も存じませぬので、〔箱根〕湯本の福住正兄〈フクズミ・マサエ〉は父も私も懇意でありましたから、私が行ってその話をしたところが、それでは俺が行ってやろうということになって、あの人が来て報徳社を開くことになりました。
 そうして段々やっているうちに、品川(子爵)さんが
「報徳については、相馬に富田高慶〈トミタ・コウケイ〉という人がいるから、行って逢ったがよかろう。おれは農商務大輔の時に、行ってその人に会ったところが、実に体が縮んでしまって、農商務の大輔とはいえぬようになった。実に偉い人だ。マア行って来い。」
 といって再三勧められました。その折りに愛知県令の国貞廉平〈クニサダ・レンペイ〉という人からも勧められて、仕方なくどんなものかと思って、行って会ってみましたが、会ってみまして、なるほどと実に敬服しました。富田先生は身体の弱い人で、始終寝ておられました。毎日1回ずつ話してくれましたが、その論理のシッカリとして明白なる、その秩序の立っていることなどは、実に敬服しました。そうして今日一段落を話すと、明日話す所をちょっと問題にしておかれる。それを押して聴こうとすると、すぐ立ってしまわれるので、誠に惜しいことだと思うと、翌日それを話してくれました。
 どうもその人に思考力を与えられるぐあいといい、話される順序の立っていることは、実に敬服しました。そうしていろいろ話を聴いているうちに、国もとにいろいろ用事ができたために、しきりに迎えが来たので、帰って参りましたが、なるほど品川さんが「之を仰げば愈々高く、之を鑚(き)れば愈々深し」といわれたとおりで、私も富田先生に会った時は、どんな人に会ったよりも、心が清らかになって、非常に勇気を増しました。それ以来あのくらいの人に会ったことはございませぬが、その割合に相馬の人がそう申しては悪いが、富田先生の値打ちを知らぬでしまっていると思います。
 富田先生が「困窮した折は、事が能く成功するが、成功すると必ず壊れてしまうものであるから、そこを覚悟しておらなければならぬ」と話されましたが、そのとおりです。私の地方は山間でございますが、非常に苦しんで回復しました。教育を始めすべて順序を立てて、これでよいとなったら、バタバタ壊れてしまって、サッパリ今は形が無くなってしまっている。それを再び回復しかけて、少しずつ芽が出かかりましたが、どこのを聞いて見ましても、人物があって回復ができても、その志を継ぐ人がいないと、維持が困難です。私の地方などは、国貞県令の時分には、皆なが非常に賛成してくれて、回復が大いに楽でございましたが、一時は県庁が先へ立って打ち壊す。警察が打ち壊すということで、いかんとも仕方ありませんでした。それはまた今日では大いに楽になりましたが、私どもの親のやる時分には、非常に苦心して、サッパリ効が無かったのです。しかしながらやる気になってやればいかぬことはないと思います。私も愛知県の県農会へ副会長に出まして、何とか農家の発展を図らにゃいくまいといって、段々話しました。
(略)
 そこで富田高慶先生が、最後に私にいわれましたのは、
「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気にならなければならぬ」と草鞋(ワラジ)をはく時までもいわれましたが、その気でやっても、どうもこの凡夫のあさましさは、己れの骨を折ったことが知らずしらずの間、かえって敵を求めることになります。全く高慶先生の言われたとおりです。それで繰り返して申しますが、どうしても農村の基礎を堅くするには、二宮翁のいわゆる分度を定めて、それから人にやらせた方が一番根が堅くなると思う。とても空理空論では治まりませぬ。
 それから私が富田先生に大いに敬服したのは、相馬藩のあれだけの改革に当って、藩から一粒も手当を受けられなかったということです。「どうしてあなたは生活していられましたか?」といったら、「イヤ二宮先生に金を借りて来て、開墾させて、その作得〔小作料〕で食っていた。改革をする時分に、君主から金を貰うと、敵を求めるに依りていかぬ」といっておられました。それで段々昇って家老職まで進んだが、禄は辞して受けられなかったのです。それから禄を辞してから何もなくて食うことができぬようになったが、公債証書を貰った。それでようやく食えるようになったのです。
「とにかく衰村を挽回して事をなさんとするには、功利の念を去ってかからぬと事ならぬ」ということを、非常にいわれたが、これは至言であると思います。

 古橋源六郎父子(第六代暉皃と第七代義実)が報徳運動に注目したのは、明治になってからだと思われる。当初、箱根湯本の福住正兄に接蝕したが、その後、品川弥二郎から、相馬中村の富田高慶に会うように奨められた。子の義実が相馬中村に赴き、教えを受けた。これをきっかけに、父子は報徳運動に本格的に取り組むようになった。
 父の古橋暉皃は、富田高慶、岡田良一郎とともに「天下の三篤農」と呼ばれたという。富田も岡田も、二宮尊徳の直弟子であるが、古橋暉皃は尊徳の弟子ではない。暉皃が報徳運動に関わることになるのは、明らかに明治以降である。父子と品川弥二郎との接点はハッキリしないが、北設楽郡長、東加茂郡長などの要職を務めており、中央とのパイプを持っていた古橋義実を通じてのものだったことは、ほぼ間違いない。古橋源六郎暉皃という「篤農」が世に知られることになったのは、子の義実が関与するところが大きかったと見るべきであろう。

コメント
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