◎山国隊、「トコトンヤレ節」を歌いながら江戸へ凱旋
今月八日のコラムでは、宮内省の編修官であったという武田勝蔵が自費出版した『宮さん宮さん』(一九六九)から、次の一節を引いておいた。
明治の夜明けを破ったものといえば、あの「錦の御旗」の下で、肩に「錦ぎれ」を着けた官軍が鼓笛隊に合せて高唱した俗にいう「トコトンヤレ節」であろう。これは官軍方の長州の品川弥次郎が作詞して、同じく同僚の村田蔵六、後の大村益次郎が節をつけたともいわれている。或る老人の話では、東征軍の進発にあたり、品川が一夜で作り、直ちに京都の絵草紙屋に頼んで急ぎ一夜で刷らせて、その店の丁稚〈デッチ〉らを連れて洛中を歌い歩いて頒ち、忽ちに市内の老若男女が口にするようになったという。明治以降の出征軍歌の前駈である。
この文章を読むと、東征軍=官軍は、その進発の時点で鼓笛隊を組織しており、「錦の御旗」の下、肩に「錦ぎれ」を着けた兵が、その鼓笛隊に合せて前に「トコトンヤレ節」を高唱しながら進軍していったというイメージを思い浮かべがちである。しかし、そうしたイメージを支えるような史料は確認できない。
まず、東征軍の進発の時点で、「トコトンヤレ」という歌詞を含む進軍歌が成立していたのかどうかが、ハッキリしない。それが、「トコトンヤレ節」と呼ばれていたかどうかもわからない。東征軍の進発の時点で、鼓笛隊が組織されていたということは考えにくい。進軍の際、鼓笛隊の演奏に合せて「トコトンヤレ節」を高唱したということも信じがたい。鼓笛隊といえば「山国隊」であるが、この山国隊の鼓笛隊というのは、いったい、いつ組織されたのだろうか。
仲村研『山国隊』(学生社、一九六八)によれば、山国隊は、慶応四年(一八六八)四月、下野〈シモツケ〉の壬生城〈ミブジョウ〉をめぐる攻防に加わって苦戦したが、結局、同城は官軍の支配するところとなった。同月二三日、同城に帰営した山国隊は、そこで、酒杯をあげながら、「「威風凛々〈リンリン〉山国隊の軍〈イクサ〉の仕様を知らないか/トコトンヤレ トンヤレナ」と歌ったという(一六一ページ)。
山国隊は、同年五月には、小田原藩への攻撃に加わった。同月二六日、小田原藩主・大久保忠礼〈タダノリ〉は謝罪降伏し、藩の重役は、「山国隊などの先鋒隊の行軍する路傍に、麻上下〈アサカミシモ〉を着用し、無刀のままででむかえ」たという(一七八ページ)。
同年六月五日、江戸へ引きあげよという命令がはいり、凱旋の途につく。藤沢、川崎に宿陣したのち、「八日昼、品川で行軍隊形をととのえ錦旗を押し立て、トコトンヤレ節を歌いながら江戸にはい」ったという(一七九ページ)。
実戦からの帰路であるから、このとき、「鼓笛」の演奏はなかったと思うが、著者の仲村研はこの点に触れていない。【この話、さらに続く】
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