◎璽光尊から神詔を受けた下中彌三郎
昨日の続きである。下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』(平凡社、一九六五)から、「璽光尊」の項を紹介している。本日は、その二回目。昨日、引用した部分のあと、改行した上で、次のように続いている。
最近の璽宇教は、宗教団体でないということを強調しているが、思い出したように時たま璽宇を訪ねてくる旧信徒に対しては、<岩戸開き>いわゆる世直しの理想を神策と称して説いている。かつてジャナリズムの波に乗せられた璽光尊は、一切の報導〔ママ〕関係者と会わないことにしているが、ときには神詔と称して平和に貢献する各界の人々に一書を送り、訪ねてくれば面接に応じることもある。もっともそういう人たちは璽光尊に言わせると、<地責者>とよび、神から選ばれた使徒で、現在世界に三千人いるという。下中弥三郎〔ママ〕はその三千人の中でも、もっともすぐれた霊格者として璽光尊から神詔を受けたひとりである。この他、久邇宮朝融〈クニノミヤ・アサアキラ〉」、吉田茂、マッカサー、インドのネール、亀井勝一郎、徳川夢声、宮崎白蓮など神詔を受けとった人々である。なかでもマッカサーは、丁重な返書を璽光尊に送っている。また吉田茂、マッカサー、ネールを除き、他はいずれも璽宇を訪れている。こうした人々を迎えるようになってからは、自費を投じて道路を建設したり、暗い道路に数十本の街灯をつけたりして、付近の人たちを喜ばしている。今日でも璽光尊は自らを天照皇大神の分身であると信じているが、璽光尊の神策なるものを要約すると、現在の末法の世相は、魔族の執念のつきるまで悪の花が咲ききらなくてはおさまらない。世界はかくして暗におおわれてから岩戸が開かれる。それを璽光尊は幽因現果とよんでいる。
下中に神詔伝達の使いをしたのは、璽宇の渉外をやっていた大久保弘一(二・二六事件の<兵に告ぐ>の告示を起草した陸軍大佐)だった。神勅を受けとった下中は、それなりの関心を抱いたようであった。璽宇から璽光尊がじきじき面接すると言ってきたので下中は昭和三十二年(一九五七年)五月の初旬、師岡へ天野照子同伴でたずねている。後日、下中はこの時の動機について述懐しているが、かつては名力士の双葉山や、天才棋士の呉清源に熱烈な信仰を抱かせた璽光尊である。そこには何か常人にない力のようなものがあった筈だ。それを知りたいと思った、ということである。【以下、次々回】
まだ続くのだが、本日はこれまで。しかし、すでに以上で、下中彌三郎が「璽宇」と深い関わりを持っていたことは明白であろう。
下中彌三郎と呉清源との間に、個人的な交流があったか否かは詳しくない。しかし、ベストセラーとなった木谷実・呉清源・安永一の『囲碁革命・新布石法』は、一九三四年(昭和九)に、平凡社から出版されている。その当時から、下中と呉との間には、一定の交流があったと見るべきであろう。
なお、『下中彌三郎事典』の巻末には、詳細な人名索引がついているが、どういうわけか「呉清源」が載っていない。「亀井勝一郎」や「大久保弘一」は載っているので、これは単なるミスと思われる。
明日はいったん話題を変える。「璽光尊」の項の紹介は、明後日に再開する予定です。
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