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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「仏教者の戦争責任」を問い続ける柏木隆法さん

2015-03-04 03:42:32 | コラムと名言

◎「仏教者の戦争責任」を問い続ける柏木隆法さん

 今日は、『下中彌三郎事典』(平凡社、一九六五)所収、「璽光尊」の項の紹介(第三回)をおこなう予定だったが、予定を変更し、柏木隆法さんの「隆法窟日乗」の記事を紹介したい。
 昨日、柏木隆法さんから、最新の「隆法窟日乗」を拝受した。そのうち、2月2日の分(通しページ289)には、次のようにあった。

 丸一日、拙は古い雑誌を繙いて〈ヒモトイテ〉いた。『大法輸』の昭和15年からの文章である。満州事変以降の仏教界がどのような段階を踏んで戦争協力をしていったのか。読むにしたがって段々と気分が悪くなっていった。差別あり、朝鮮人差別あり、よくもまあ大東亜共栄圏を標榜しておきながら一方でこんな差別発言が許されているものかと驚いた。何年か前、拙は或る仏教系の雑誌から「戦争責任」と云うテーマで50枚程度の原稿を依頼されて拙は承諾し、市川白弦の許可を得て臨済宗の戦争協力についての原稿を書いた。ところがしばらくして「実名を挙げては困る」という添え書き付で返送されてきた。文章が拙いものならボツもやむを得ないが、そうではないらしい。教団の老師クラスの戦争中の発言をまとめたものにすぎなかったが、存命者の旧悪を挙げることは禁物らしい。拙はベトナム戦争やそれ以前の朝鮮戦争にも言及したが、それが問題になったらしい。現にベトナムではガソリンを被って抗議の自殺をした僧侶が何人かいた。『法華経』では苦行として自分の体を焼くことが書かれている。だが自殺を奨めている箇所はない。その時代の宗教者の解釈によるものだ。古くは鉄門海上人の即身成仏もまた自殺だが、拙なんかそういう考え方は微塵もない。そもそも国家のために死ぬなんていうことは最も愚かなことなのである。戦中の仏教者の論文を読むと呆れるくらい天皇制を賛美し、8月15を境に見事に転身した仏教界に主体性や信念を期待するのはどだい無理なことなのである。無理なことをいくら思い悩んでも仕方がないから拙は悩まないことにする。その代り拙がやるべき「仏教者の戦争責任」の調査は市川白弦から引き継いだものであるからこちらに専念させていただく。市川が同名の著書を出版した時点〔一九七〇年〕ではまだ臨済宗の僧籍があったから圧力も相当なものがあった。しかし拙はなーんにもないから庄力なんか加えようもない。想像されるのは名誉棄損だけであるが、その点も考慮して論拠を明確にしている。師資相承というのは研究というものは何代も弟子が引き継ぐものであり、決して個人の研究が完成されることはないものなのである。拙が最も困っているのは、大正の始め、大正政変といわれた第一次護憲運動から関東大震災にかけての仏教界の動向だが、なにも資料が残っていないことだ。新仏教運動も大正4年〔一九一五〕に解散し、その後は解放運動の過程で僅かに仏教の動向が記録されている程度で、後は中外日報、転法輪、曹洞宗報くらいで教団の動向を書き残したものがない。頼みとするのは地方寺院が布教用に独自で出していた雑誌に興味ある記述が、それも断片的に残っているだけで、まとまった資料がどこにもないことだ。僧侶はなかなか本音を明らかにしていない。雲をつかむような作業だが誰かがやらねばならぬ。昭和15年前後の機関紙類は現存するものは数少ないが天皇制を賛美したものばかりではなく、小作問題や労使関係についての僧侶の見解を直截に述べたものがある。中央の雑誌には憚られたものが地方ではまだ堂々と批判精神を発揮したものかある。そのあたりに本音が潜んでいる。拙が保存している古い雑誌、新聞類の大半は伊藤証信の無我苑に保管されていたものだが、他のものは名古屋大須の縁日で古物商の店頭に出たものが多い。その味噌糞一緒になったものを選別するのも大変な作業である。市川から引き継いでものが500点くらいあったから、その後拙が入手したものと併せると10倍にもなる。最近ようやくにして読み姶めた。拙が生きている内にどこまでできるやら。鳴呼。

 誰か、柏木隆法さんの研究に加わり、あるいはそれを引き継ぐ若手研究者がいないもののだろうか。
 なお、「璽光尊」の項の紹介(第三回)は、都合により、明日ではなく、明後日におこないます。

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