礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

呉清源と下中彌三郎

2015-03-01 07:10:06 | コラムと名言

◎呉清源と下中彌三郎

 昨二八日朝のNHK番組『あの人に会いたい』に、早くも呉清源(一九一四年六月一二日~二〇一四年一一月三〇日)が登場した。
 NHKネットクラブによって、番組の内容を確認しておこう。

「碁の神様」といわれた呉清源。独創的な新布石を生み出し、昭和の囲碁界に君臨した天才棋士である。大正3年〔一九一四〕、中国福建省生まれ。14歳の時、来日。木谷実四段と二人で、伝統の定石を一変させる新布石を編み出す。戦前戦後を通じ「打ち込み十番碁」で名だたる一流棋士をことごとく打ち込み、最強の打ち手と言われた。昭和59年〔一九八四〕引退し、後進の指導や囲碁の国際化に貢献した。囲碁一筋に生きた人生の神髄が語られる。

 呉清源といえば、戦前戦後の一時期、世界紅卍会〈セカイコウマンジカイ〉という慈善団体、あるいは璽宇〈ジウ〉という新興宗教に深く関与していたことで知られている。このあたりについては、昨年一二月一一日の当ブログ「呉清源さんと世界紅卍会」で、その一端を紹介した。
 NHKが、『あの人に会いたい』という番組で、このあたりの活動についてどう触れるのか、注目しながら見ていたが、結局、ほとんど触れることはなかった。ただ、ナレーションで、ごく短く、日中戦争が始まったころから、一時期、「新興宗教」に救いを求めたことがあったということは、解説していた。
 ところで、平凡社の創業者である下中彌三郎(一八七八~一九六一)は、この呉清源とある接点を持っていた。新興宗教「璽宇」の教祖・璽光尊(俗名・長岡良子〈ナガコ〉)が、その接点である。
 下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』(平凡社、一九六五)には、「璽光尊」という項目がある。その説明は、三ページに及んでいる。本日は、その最初のほうを紹介してみよう。

 璽光尊 璽光尊が有名になったのは、昭和二十一年(一九四六年)金沢へ本部を構えてからである。当時、六十九連勝の偉業を成しとげた横綱双葉山(現、時津風相撲協会理事長)と、囲碁の天才をうたわれた棋士呉清源とが、相前後して璽宇教へ帰依し話題を賑わした。教祖の璽光尊は、戸籍上では神戸市に本籍をもつ高級船員長岡某の妻良子となっているが、彼女が次第に神懸り的になってからは夫婦は別居するようになり、昭和十六年(一九四一年)に四谷区(現、新宿区)愛住町〈アイズミチョウ〉に璽宇教の着板を褐げたのが始まりである。しかし自らを天照皇大神の分身と思いこむようになったのは、戦後からである。
 璽光尊は双葉山を素戔鳴大神の化身と称しその名も素彦と呼んだ。そして彼女は双葉山は世界に二、三人しかいない偉大な霊格者であると称揚し、彼を股肱の臣として寵愛していた。呉清源は、璽宇教の巫子をつとめていた旧姓中原和子と、やがて婚姻することになるのだが、当時璽光尊に帰依していた。その他幹部として勝木元彦、清水誠一、西口宗雄などが璽光尊の側近として活躍していたが、やがてこれらの幹部による璽宇内閣の組織、つづいて昭和を霊寿とする年号の改称などで話題は一層拍車をかけられた。そのうち璽光尊は神示と称し、近く日本の大半が潰滅するような大地震が起こる、という予言を行なった。このことが当局の忌避に触れ、璽光尊をはじめ璽宇教幹部の総検挙となった。現在の日本精神神経会理事長秋本波留夫(東大教授)は当時金沢大学教授であったが、このとき璽光尊の精神鑑定を行ない、誇大妄想狂と診断した。この事件は璽光尊と一部幹部の二十日間の留置で、証拠不十分で不起訴処分と決まったが、この事件を契機として読売新聞藤井記者らの運動もあって、双葉山は璽光尊の下を去り、璽宇教はついに再興の夢ならず、金沢から逃がれるようにして青森県の八戸へと本部を移していった。その間、マッカサー元帥への直訴、秩父宮邸乗り込みなどでジャーナリズムを再び賑やかしたが、信徒の多くは璽光尊を見すてて去っていった。わずかに中原和子、妹の叶子、呉清源をはじめとするさきの幹部の一行に、十八人の信徒が璽光尊の側近として従っていたにすぎない。
 だが八戸も警察の弾圧のため本部を構えることができず、やがて箱根仙石原〈センゴクバラ〉の呉清源宅へ遷宮ということになった。しかし呉清源宅は、当時読売新聞社社長の馬場恒吾の所有だった関係もあり、読売の専属棋士である呉清源の立場をおもんぱかった読売側の処置として、直ちに家屋明渡しの提訴がなされた。やむなく璽光尊は昭和二十五年(一九五〇年)七月十八日、仙石原の呉清源宅を引き払った。このことのあった直後、最後の頼みにしていた呉清源夫妻も、ついに璽光尊から離れていった。今度は双葉山の場合とちがって呉清源夫妻は璽光尊に対して批判的な態度をとり、呉清源は間もなく紅万字に拠って、璽宇教否定の立場を明らかにした。その後の璽宇は東京の荻窪、祐天寺と転々と居を移していたが有力幹部は次々と脱離してゆき、璽光尊を守るものは、かつて璽宇内閣の総理に擬せられた勝木元彦ひとりという状態であった。その頃、たまたま横浜に住んでいた旧信徒の娘で小児マヒのため歩行ができなかったのを、祈祷で歩けるようにしたというので、両親の感謝をこめたたっての願いから、横浜市港北区師岡の農家へ璽光尊は迎え入れられた。ここを改装して璽宇仮宮と定めて今日に至っている。【以下、次回】

 ながながと引用したが、ここにいたって、まだ「下中彌三郎」が出てこない。しかし、このすぐあとに出てくるので、明日まで、お待ちいただきたい。

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コメント (1)
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