◎キングコングは、なかなか登場しない
少年時代に、『翼よ!あれが巴里の灯だ』(一九五七)を鑑賞した青木茂雄氏は、「脚本がいかに映画にとって決定的であるか」ということが、その時すでに、「良くわかった」という。さすがというべきか。
さて、『キングコング』(一九三三)という映画についても、「脚本がいかに映画にとって決定的であるか」ということが言えると思う。ただし、私がそれに気づいたのは、五〇代も半ばに達し、DVDで、この映画を久しぶりに鑑賞してからのちである。
港を出港した船は、目的地のスカル島を目指す。この島は、スマトラ島の西南に位置しているが、海図には載っていないという設定である。この間、数週間の航海。この数週間の長さと退屈さとを、映画は、色々な場面をつなぐことで、観客に示す。「女優」アン・ダーロウ(フェイ・レイ)と、船員ジョン・ドリスコル(ブルース・キャボット)とが、徐々に惹かれあってゆく様子を見せたり、甲板でジャガイモの皮をむく中国人コックと、「女優」とが会話(雑談)する場面を入れたり。
いよいよ、目的地に近づいてくると、カメラ・テストがおこなわれる。そう、この航海は、スカル島において、ある「記録映画」を撮影するためのものだったのである。しかし、「女優」アン・ダーロウは、その「記録映画」の内容を知らされていない。もちろん、「キングコング」の存在も。
薄手のコスチュームを身にまとって、船べりに立った「女優」は、いろいろな演技を要求される。これを撮影するカメラは、何と「手回し」である。「女優」が、何か得体の知れないものを目にし、恐怖にかられて絶叫するシーン。もちろん「カメラ・テスト」という設定だが、すでにアン・ダーロウも、これから起こるであろう「何か」を予感している。その「予感」は、当然、映画の観客にも伝わる。心憎い演出である。
そうこうするうちに、ようやく、スカル島らしい島が見えてきた。髑髏の形をした山で、それとわかる。沖合に船を停泊させ、十数人が、ボートに乗って上陸を試みる。よせばよいのに、アン・ダーロウも、その中に加わっている。このことが、そのあとの悲劇を生むことになるわけであり、映画の観客も、うすうすそれを予感しているわけだが、いかんともしがたい。
キングコングが登場するのは、まだまだあとだが、すでにこの段階で、十分こわい。青木氏の言ではないが、「脚本がいかに映画にとって決定的であるか」ということである。
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