礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

エノケンは義経・弁慶に追いつけたのか(2)

2015-03-09 07:17:48 | コラムと名言

◎エノケンは義経・弁慶に追いつけたのか(2)

 相も変わらず、黒澤明監督の映画『虎の尾を踏む男達』(一九四五)の話である。先月二七日のコラムの末尾で、私は次のように書いた。

 中村秀之氏も指摘されているように、ラストシーンでエノケンは、確かに「何かに気づいて」いる。これは、「山伏たち一行」に気づいたということではないのか。それにしても、すでに、夕闇が迫っている。はたして、エノケンは、山伏たち一行に追いつくことはできたのだろうか。

 義経・弁慶ら、「山伏」に変装した一行は、酔って寝込んでしまったエノケンを置いて、出発してしまう。置き去りにされたことに気づいたエノケンは、あわてて後を追う。駆け出す前、一行の姿を遠くに見出したかのようであった。
 同映画は、ここでエンドマークとなる。このあと、エノケンが義経・弁慶に追いつけたのかどうかが気になるところだ。
 もし、この映画の最後に、ワンシーンを加えるとしたら、どんなふうになるのだろうか。いくつかのラストを、勝手に考えてみた。
 まず考えられるのは、次のふたつである。

 エノケンは必死に一行を追うが、いつまでたっても追いつけない。そのうちに日が暮れ、追うのをあきらめたところでエンドマーク。
B エノケンは必死に一行を追う。ようやく追いついたエノケンはて、義経の笈を背負い、そのまま、一行とともに東北に向かう。

 の場合、このワンシーンを加えることに、それほど積極的な意味はない。を加えると、義経・弁慶らが、エノケンを置き去りにした意味が失われてしまう。つまり、これらを加える必要性は、ほとんどない。
 そこでさらに、次のようなラストを考えてみた。

 エノケンは必死に一行を追う。ようやく追いついたと思ったら、義経から、言葉は穏やかだが、厳しい態度で、引き返すよう命じられた。よく見ると、義経を除いて、弁慶ら「山伏」の脚が消えている。恐れ慄いたエノケンがひれ伏すところで、エンドマーク。
 エノケンは必死に一行を追う。ようやく、追いついたと思ったら、そこには、義経ただひとりで、弁慶らがいない。聞けば、弁慶らは、安宅の関へ引き返したという。エノケンが、義経に従って東北を目指すところで、エンドマーク。 
 エノケンは必死に一行を追う。ようやく、追いついたと思ったら、そこに見出したのは、義経と、先ほど酒を振る舞ってくれた富樫の部下たちであった。義経曰く、「これからは富樫の部下に警護してもらう。お前はもう帰ってよい」。エノケンが、手を振って見送るところでエンドマーク。

 は、この映画が、敗戦直後に構想されたと捉えた上で、安宅の関=これから始まる東京裁判、義経=訴追を免れるであろう天皇、弁慶ら山伏=自決した軍部中枢、あるいは訴追されるであろう軍部中枢と見立てたのである。

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