◎小学生時代に見た傑作『キングコング』(1933)
青木茂雄氏の「記憶の中の映画」シリーズを読んでいて気づいたのだが、青木氏が育ったご家庭というのは、かなり「映画」というものに理解があったと思う。また、経済的にも恵まれたものがあったのだろうと思料する。
私は、青木氏とは同世代だが、家族と一緒に映画館を訪れた経験は、数えるほどであった。そのかわり、青木氏とは違い、小学生時代でも、「子どもだけ」で映画館に行ったことが何回かはあった。
いずれにしても、昭和三〇年代の東京郡部に住む小学生にとって、「映画」というのは、かなりゼイタクな娯楽なのであって、それに親しむ機会と言えば、夏休み、小学校の校庭で開かれた「納涼映画会」、教師に引率されて学年単位で見にゆく「映画教室」といったものが主であり、これに、子どもたちだけでゆく場合、家族に連れられてゆく場合とが、年に一、二回、加わる程度だったと思う。
そうして見た映画のうち、小学生ながらに最も「傑作」だと思ったのは、一九三三年に製作された『キング・コング』であった。これは、たぶん、子どもたちだけで、電車で隣町までゆき、「新映座」という映画館で見た。このとき、電車の片道料金(小人)は五円、映画館の入場料(小人)は三五円だったと記憶する。
『キング・コング』は、その当時ですでに、二〇年以上も前の映画であった。その日、なぜ、そんな古い映画が上映されていたのかは、いまだに不明である。
画面は当然白黒で、出てくる飛行機も複葉機であった。小学生の私でも、「これは古い」と思わざるをえなかった。しかし、手に汗を握ったし、おもしろかったし、感動もした。こんな素晴しい映画を、二〇年も前に完成させていたアメリカという国に羨望した。この映画が一九三三年製作であることは、小学生の私でも、クレジットから判読できたのである。
ストーリーは、こんな感じである。南洋の某小島には、キング・コングという巨大な怪獣が生息しており、原住民の間には、毎年一度、ひとりの娘を人身御供として、そのキングコングに差し出すという風習が残存していた。
アメリカの興行師の一行が、その島に赴くが、原住民の酋長が、一行のうちに含まれていた美貌の女性に目をとめ、これを人身御供にしたいと言い始める。
当時、「人身御供」などという言葉を知っていたわけではないが、映画の設定そのものには、まったく違和感がなかった。おそらく、それ以前に、「八股のオロチ」の話などの類話に親しんでいたためであろう。
この映画の原作者が誰だったのか、彼は何をヒントにして、こういうストーリーを考え出したのか等について、かなり興味があるが、まだ調べたことはない。しかし、この映画が作られたころ、インドネシアやニューギニアの一部では、一族の娘「ハイヌヴェレ」を犠牲にすることで、栽培植物の豊作を祈る祭が、まだ実際におこなわれていたという。
この映画が、そうした文化人類学的な知見を踏まえていたかどうかは不明だが、小学生の私にとっては、この映画は、十分なリアリティがあり、震えあがるような恐ろしさがあったのは事実である。【この話、続く】
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