◎璽光尊の言葉は神の声としてきけた(亀井勝一郎)
今月二日からの続きである。今月の一日、および二日のコラムでは、下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』(平凡社、一九六五)から、「璽光尊」の項を紹介した。本日は、その三回目(最後)。二日に引用した部分のあと、改行をせずに、次のように続いている。
日頃からひと一倍求道心の篤い下中は、どこそこに神を唱えるものがあるときけば、どんな遠い所へでもとんでゆく人である。それは決して冷かし半分や興味本位の場合は一度もなかった。璽光尊の場合も例外ではなく、しかも何か心に触れるものがあったのだろう。二度目の来訪のときには弥三郎窯で焼いた見事な花びんを持参した。その花びんには世直しを告げる夜明の意味を表わした、鶏鳴を告げる鶏の絵が描かれてあった。三回目はアジアの旅を終えた直後の忙しい時間をさいて来訪している。そのときには種々の土産の中で、下中にとって貴重な記念品と思われるナセル大統領の署名入りの銀のタバコケースを献上しているのである。これを見ても下中の璽光尊への傾倒ぶりがうかがえるのであるが、実業の世界社から発行されている『女性仏教』(昭和三十二年九月号)に「万魂救済こそ永遠の平和」という題で、天野照子に璽光導礼讃の一文を書かせている。さらに、璽光尊鑑定の意味からか宗教に明るい神田孝一をつれていったりしているが、昭和三十二年七月十一日にはクラブ関東へ璽光尊に会った亀井勝一郎、徳川夢声、当時の中外日報神奈川支局長桜井好光らをよび「璽光尊の印象を語る会」を開いた。璽宇教からの列席者として山田専太(現在、柔道普及のためイギリスに滞在中)が招かれた。(彼は後日、璽宇をでてから下中の私設秘書のような役目をつとめるようになる)この日の模様は昭和三十二年(一九五七年)七月十七日付の『中外日報』(当時、今東光〈コン・トウコウ〉が社長)雑記帳欄にくわしいが、下中は、「璽光尊の印象はいずれも世に言われているような妄想狂や非常識ではなく、世直しの没々たる理想を説く神様は実に整然として頃聴に価するものがある」と、言っている。亀井勝一郎は「璽宇教で書かれた神詔や神示は、勿体ぶった文体で感心できなかったが、直接きく璽光尊の言葉は神の声としてきけた」と言っている、徳川夢声は毎月三、四回定例のように璽宇を訪れていたが、亀井勝一郎と大同小異の意見だった。璽光尊が果たして神であるか、ないかの是非はともあれ、下中の璽光尊観に嘘があろうとは思えない。その後、多忙のため璽宇を訪れる日が次第と少なくたっていったが、天野照子を通じて万葉の歌を書いた弥三郎焼きの皿を届けることは忘れなかった。或る日、奉書にしたためた左の一首が璽宇へひそかに寄せられた。
人の世は神ごとながらせはしなく
遠ざかりゐる師岡の里 弥三郎 (桜井・一)
最後に、下中彌三郎の和歌が引かれているが、写真版で掲げられているものと、少し違う。写真版では、次のようになっている。
人の世は
神ごとながら
せはしなく
遠ざかりゐる
もろをかの里 彌
また、そのあとに、「桜井・一」とあるが、これは、この項を執筆した桜井一彦氏の署名である。『下中彌三郎事典』巻末の「執筆者紹介」によれば、桜井氏は、宗教の専門紙『中外日報』の神奈川支局長だったことがあり、下中彌三郎が璽光尊を訪問する際、「面接の労」をとったという。同辞典において執筆しているのは、「璽光尊」の項のみ。
*「伴蔵」さん、コメントありがとうございました。