◎井上赳が語る、戦中における教科書編修事情
本日は、話題を転じようと思ったが、尾崎光弘さんから、「太郎花子国語の本」について、あるいは井上赳について、関心を抱いた旨のコメントをいただいたので、もう少し、同じ話題でゆきたい。
昨日、紹介したように、国語教育講座編集委員会編『国語教育問題史』(刀江書院、一九五一)に、井上赳の「国語教育の回顧と展望 二 ――読本編修三十年――」という文章が収録されている。この文章は、次の八節からなる。
一 恩師に叱られる
二 そのころの読本編修
三 読本編修の史的展望
四 新編纂法を求めて
五 サクラ読本成る
六 国民学校教科書事情
七 国語教育の行くえ
八 太郎花子国語の本作成
どの節にも興味深い記述が盛られているが、本日は、第六節を紹介してみよう。
六 国民学校教科書事情
サクラ読本の編修が尋常科だけ終ったころから、私どもはそろそろ国民学校の教科書を考えざるを得なくなった。実はサクラ読本の高等科にかかることが差当りの問題であり、それに一年おくれて出た「画期的」な「小学算術」の編修もまた高等科をめざしていた。ところで一方に教育審議会の国民学校案が次第に具体化しその実施も間近いことが予想され、その実施と共にその教科書がなくてはならぬというわれわれにはおもしろくない事態が差し迫った。
元来図書局の編修者は、あの「皇国の道に帰一する」といった国民学校の根本方針に大きな疑惑を持っていた。この根本方針から国語修身地理歴史が統合されて国民科となり、算術理科が統合されて理数科となり、そうして各教科がそれぞれ皇国の道に帰一するというのは、どこまでも一個の理念であって、これまでの教育の実際に於いて築き上げられた具体的方法もなければ理論もないのである。昭和十四年の夏普通局長を中心に、督学官・図書監修官が約一ヵ月論戦したのは、実にこの点である。そしてわれわれ図書局員が最も否定的な態度を取ったので、そろそろ自由主義だと言われ始めた。私はすでにこの時北京にある大岡〔保三〕氏に代って〔編修〕課長代理を勤めており、最も責任を感じるが故に、ほとんど最後まで肯定できなかったのであるが、長い論戦の間には錯覚も起り易く、まず理数科の統合に理窟がつけられそうになり、以来私は局の内外から矢を受けそうな形になった。
いよいよ編修方針を定めるに当って、監修官の協議が長く続いたが、教科書は教科別に作らず科目別に作ること、サクラ読本の編修方針に従って児童を四期に分け、各科目教材を発生的に排列すること、各科目の横の連関を密接にすることにわれわれは根本方針を決定した。科目別に作ることには上層部はもとより、早く聞き伝えた世間までが不満で、せめて国語と修身の一つにせよとか、何と何は一緒にせよとか横槍が出たが、われわれはこの方針を最後まで変えなかった。それどころか、この国民学校令を機として、国語にば「話方」が分科としておかれることになったのに乗じ、私は皮肉にも在来の読本の外〈ホカ〉に「ことばのおけいこ」というものを編纂し、国語教科書を二本建〈ニホンダテ〉にする計画をさえ立てた。これがために用紙を乱費するものだという上層部の叱責的な非難もあったが、私は強引に押し進めた。戦後の言語教育といえばわが事のように論じたがる現在の人も、戦前すでにこうした考え方か実行に移されたこと――もちろんあわただしい時機に際してのきわめてお粗末な出来ばえでばあったが――について先輩のなめた苦労だけは汲んでほしいと思う。そして記憶しておいてもらいたいことは、あの神がかりの極端な国粋圭義の権化〈ゴンゲ〉と見られがちな国民学校の方針を具体化すべき教科書の編修方針が、その実、根本的に児童中心の自由教育をまもりぬくべき仕組みにできていたことである。国定教科書始まって以来初めて用いた「よみかた」「ことばのおけいこ」「よいこども」「かずのほん」「ゑのほん」「うたのほん」といった書名だけを見ても、それがわかってもらいたいのである。【以下、次回】