礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

嵐を越えてきた社会学者・森岡清美先生

2015-12-18 05:37:53 | コラムと名言

◎嵐を越えてきた社会学者・森岡清美先生

 昨日、家永三郎の「名誉教授」号問題について触れたところ、思いのほか、アクセスが多かった。そこで、本日は、その続きである。
 昨日は、森岡清美さんの自伝『ある社会学者の自己形成』(ミネルヴァ書房、二〇一二)を引用させていただいたわけだが、引用しながら、森岡清美先生の誠実なお人柄というものが、ヒシヒシと伝わってきた。
 私はまだ、この本自体も、通読したわけではないし、また森岡先生の著作も、たぶん、これまで読んだことはないと思う。かつて、農村キリスト教会や真宗教団の調査にあたられ、また、神社合祀や新宗教についても研究されている先生の業績に、これまで注目してこなかったことを慙悸したのである。
 本日は、『ある社会学者の自己形成』の「はしがき」を引用することで、森岡清美先生の研究歴あるいは人生の一端を、紹介させていただきたいと思う。

 はしがき
 私が研究者を志したのは、敗戦直後の一九四〇年代後半であった。その頃は日本の学校制度の大きな改革期であったが、意識としてはなお旧制度的なものが色濃く残存していて、彼は傍系だ、といったことが、本流に棹さす年配の研究者の間で囁かれた。本流とは旧制中学校から旧制高校や大学予科をへて旧制大学を出たエリートたちであり、とくに帝国大学を卒業した研究者がエリート中のエリートと自他ともに認めていた。「傍系」の語は、エリート官僚に対比される叩きあげの役人に似た響きをもった。一九五〇年代以降、戦後の学制改革などに因って傍系の語を耳にすることがなくなったことは、学界の空気の歓迎するべき変化であるが、研究機会へのアクセスにはなお格差があり、専門的訓練環境の優劣意識として密かに息づいているのではないだろうか。
 私は小学校高等科をへて師範学校に学んだ文字通りの傍系出身である。かつての女性研究者と男性研究者の格差ほどではないにせよ、同じ男性研究者の間でも、傍系出身者には始めから本流にあった人たちにはないストーリィ、訓練環境の不備を自己練磨によって補うほかない者のストーリィがある。まことに貧弱であるが、自分自身を例として本流育ちの人にはないストーリィを書いてみたいと思った。
 私の小学校入学から高等師範学校修了までの一五年は一五年戦争期に重なった。私たちは天皇制国家主義の教育環境のなかで育ち、自己の置かれた運命に誠実に応えようとする態度を養われたのではなかったか。敗戦後、人格・人権・民主圭義の理念を軸に自己を再形成するさい、旧理念との葛藤を経験しなかったばかりか、むしろ解放の感覚さえあったのは、そのゆえかもしれない。いずれにせよこのストーリィは、けだし私たちの世代を特色づけるものであろう。
 ある高名な評論家は、一八歳からの数年間にどのくらい本を読んだかが決定的に重要だと言い放った。私も同感であるが、戦中派と呼ばれる私の世代の研究者たちは、二〇歳前後の数年間、勤労動員や学徒出陣でろくに本を読む時間がなかつた。教養不足で視野が狭い欠陥商品のようなわれわれが、戦後どのような自己研鑽の歩みを辿ったか。これは前段と表裏するストーリィを織りなしている。その一つの事例を書き残しておくのも、意義なしとしないであろう。
 われわれの世代の研究者は、一九七〇年前後数年間、大学紛争に際会し、教員として使い勝手のよい年頃であったためか、多かれ少なかれ紛争から強いインパクトを受けた。これが研究者としての姿勢にも、深いところで影響しないはずはない。私の勤務校で起きた筑波紛争は、学生蜂起による並の大学紛争にはない破局的な展開をみせたので、そのインパクトは計り知れない。大学解体という特異例であるが、そのなかで私がどのように変わっていったかも、語るに値することだと思った。
 われわれの世代の研究者が経験した主な時代的難局を挙げて、これらを嵐に見立てた。それに加えるに値する嵐として、私が幼少期に経験した家庭内のいじめにも、いじめから私を守ってくれた抱擁とともに、言及しなければならない。幼少期にはミクロレベルの家庭の嵐、青年期にはマクロレベルの国民的嵐、壮年期にはメゾンレベルの職場の嵐といえようか。副題に「幾たびか嵐を越えて」と付したゆえんである。【以下、略】

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