◎ドレフュス事件とデュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐
今月一五日のブログで、ドレフュス事件に触れた。以来、ドレフュス事件に対して興味が湧き、映画『ゾラの生涯』(一九三七)を観たり、図書館から渡辺一民氏の『ドレーフュス事件』(筑摩書房、一九七二)を借り出したりした。本当は、まず、大佛次郎の『ドレフュス事件』(初出、一九三〇)を再読すべきだったのだが、持っているはずの古い単行本が、なかなか見つからない。しかたなく、一昨日、図書館に赴き、『大佛次郎ノンフィクション全集 第1巻』(筑摩書房、一九七一)を借りてきた。
さっそく、読みはじめる。簡潔にして情理を尽くした名文に、あらためて感心する。これは、優れた小説であると同時に、鋭い問題提起を含んだドキュメントである。
最初のほうに、ドレフュスが逮捕される場面がある。引用してみよう。
ドレフュスは初めて、呼ばれたのが自分だけらしいのに気がついた。
ピカール少佐は、暫くしてから、参謀総長の部屋ヘドレフュスを連れて行った。そこには総長はいないで、デュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐がドレフュスの知らない平服の三人の男といて、大尉の敬礼を受けた。その三人と云うのは、あとで判ったが、憲兵総監とその書記と記録係だった。
「将軍は今来られるが……」
と話し掛けたデュ・パチイ少佐の声は、ドレフュスにも、何かしら普通でない調子が感ぜられるものだった。
「それまで、私は手紙を書きたいが、手を痛めているので、君に筆記して貰おう。」
見れば脇の卓【テーブル】にペン軸と紙の用意が出来ていた。ドレフュスが何気なくそれに向って座ると、少佐は椅子を持って来て、ドレフュスの傍【かたわら】に腰掛けた。
少佐が口述してドレフュスに書かせたのは、例の密書の文句だった。一々言葉を区切って口述しながら少佐の目は、ペンを持ったドレフュスの手に凝と〈ジット〉そそがれていた。
「君、手がふるえておるじゃないか?」
少佐が急に詰問するようにこう云い出したので、そんな筈のなかったドレフュスは吃驚〈ビックリ〉したように振向いた。
少佐は凄い気色で繰返した。
「ふるえている……」
何となく敵意に近いものが感じられるような声である。ドレフュスは自分の手を見詰めた。ふるえているようには信じられなかったが、冷たい外気の中を歩いて来たところだったので、おとなしく、
「手がつめたいのであります。」
と答えた。
次にドレフュスが驚いたのは、少佐が、「重大なところだ。」と叱りつけるように云った時だった。これも意味がわからなかったので、ドレフュスは、ただ字体を正しく書くようにした。
「それまで、」
と少佐は急に口述を歇めて〈ヤメテ〉、椅子から立った。
立ったかと思うと、その手を重くドレフェスの肩へ置いて、
「法律の名に於て、君を逮捕する。」
と云い、
「叛逆罪だ。」
と附加えた。
ドレフュスは立上っていた。
何が何だかわからずに声を立てて抗議した。その時までに傍に来ていた憲兵総監と書記がそれと見ると、左右からドレフュスの腕をつかんだ。
映画『ゾラの生涯』にも、ほぼ、これと同じ場面が出てくる。映画でも、最後にドレフュスを連行していったのは、「平服の三人」であった。大佛次郎も、映画の脚本家も、同じ文献を参照していたものと推測される。
ただし、映画では、ドレフュスに尋問にあたったのは、「デュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐」ではなく、別の名前の軍人である。最後のクレジットでは「Major Dort」、日本語字幕では「ドルト大佐」(ママ)となっていた。「du Paty de Clan」が長すぎるので、勝手に、「Dort」にしてしまったのだろう。ちなみに、ゾラは、「私は弾劾する」("J'accuse")において、このデュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐のことを最も強く批判している。
なお、映画で「Major Dort」を演じている長身の俳優は、ルイス・カルハーン(Louis Calhern)である。どこかで見た顔だと思ったが、ジョン・ヒューストン監督の傑作『アスファルト・ジャングル』(一九五〇)で、犯罪に加担する銀行家に扮して、重厚な演技を見せていた。その銀行家の愛人役を演じていたのが、まだ無名に近かったマリリン・モンローである。【この話、続く】
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