◎「読本の神様」井上赳が書いた「月光の曲」
部屋の片づけをしていたところ、高木市之助〈タカギ・イチノスケ〉述・深萱和男〈フカガヤ・カズオ〉録の『尋常小学国語読本』(中公新書、一九七六)が出てきた。
むかし読んだことのある本である。あらためて目次を見てみると、「十五 井上赳君のこと」とあるのが目にとまった。「サクラ読本」で知られる井上赳〈イノウエ・タケシ〉のことである。実は、井上赳を教科書編修の仕事に誘ったのは、国文学者の高木市之助であった。
この章において高木は、井上赳が「読本の神様」と呼ばれていたことなどを紹介しながら、井上の見識と力量を高く評価している。そればかりではない。同書の「附録」の2では、「読本の神様」と題して、再び、井上赳との交流を語っている。
高木は、「井上君が書いた白表紙本の中の傑作」として、巻十二に載っている「月光の曲」が挙げらている。そして、「月光の曲」の全文を引用するのである(第十五章)。当コラムでも、以下に、その全文を引用してみたいと思う。
高木の引用では、改行の一字サゲがないが、以下の引用でも、そのままにしておいた。また、若干の漢字にルビが施されていたが、これは省略した。
ドイツの有名な音楽家べートーベンがまだ若い時分のことであつた。月のさえた冬の夜友人と二人町へ散歩に出て、薄暗い小脇を通り、或小さいみすぼらしい家の前まで来ると、中からピヤノの音が聞える。
「あゝ、あれは僕の作つた曲だ。聴き給へ。なかなかうまいではないか。」
彼は突然かういつて足を止めた。
二人は戸外にたゝずんでしばらく耳をすましてゐたが、やがてピヤノの音がはたと止んで、
「にいさん、まあ何といふよい曲なんでせう。私にはもうとてもひけません。ほんたうに一度でもよいから、演奏会へ行つて聴いてみたい。」
と、情ないやうにいつてゐるのは若い女の声である。
「そんなことをいつたつて仕方がない。家賃さへも払へない今の身の上ではないか。」
と兄の声。
「はいつてみよう。さうして一曲ひいてやらう。」
べートーベンは急に戸をあけてはいつて行つた。友人も続いてはいつた。
薄暗いらふそくの火のもとで、色の青い元気のなささうな若い男が靴を縫つてゐる。其のそばにある旧式のピヤノによりかゝつてゐるのは妹であらう。二人は不意の来客にさも驚いたらしい様子。
「御免下さい。私は音楽家ですが、面白さについつり込まれて参りました。」
とべートーベンがいつた。妹の顔はさつと赤くなつた。兄はむつつりとしてやゝ当惑の体である。
べートーベンも我ながら余りだしぬけだと思つたらしく、口ごもりながら、
「実はその、今ちよつと門口で聞いたのすが、――あなたは演奏会へ行つてみたいとかい
ふお話でしたね。まあ一曲ひかせていたゞきませう。」
其の言方が如何にもをかしかつたので、言つた者も聞いた者も思はずにつこりした。
「有難うございます。しかし誠に粗末なピヤノで。それに楽譜もございませんが。」
と兄がいふ。ベートーベンは、
「え、楽譜がない。それでどうして。」
といひさして、ふと見ると、かはいさうに妹はめくらである。
「いや、これでたくさんです。」
といひながから、べートーベンは、ピヤノの前に腰を掛けて直にひき始めた。其の最初の一音が既にきやうだいの耳には不思議にひゞいた。べートーベンの両眼は異様に輝いて、彼の身には俄に何者かが乗移つたやう。一音は一音より妙を加へ神に入つて、何をひいてゐるか彼自らも覚えないやうである。きやうだいは唯うつとりとして感に打たれてゐる。べートーベンの友人も全く我を忘れて、一同夢見る心地。
折から燈がぱつと明るくなつたと思ふと、ゆらゆらと動いて消えてしまつた。
ベートーベンはひく手を止めた。友人がそつと立つて窓の戸をあけると、清い月の光が流れるやうに入込んで、ピヤノとひき手の顔を照らした。しかしベートーベンは唯だまつてうなだれてゐる。しばらくして兄は恐る恐る近寄つて、力のこもつた、しかも低い声で、
「一体あなたはどういふ御方でございますか。」
「まあ待つて下さい。」
ベートーベンはかういつて、さつき娘がひいてゐた曲を又ひき始めた。
「あゝ、あなたはベートーベン先生ですか。」
きようだいは思はず叫んだ。
ひき終るとベートーベンは、つと立ち上つた。三人は「どうかもう一曲。」としきりに頼んだ。
彼は再びピヤノの前に腰を下した。月は益々さえわたつて来る。「それでは此の月の光を題に一曲。」といつて、彼はしばらくすみきつた空を眺めてゐたが、やがて指がピヤノの鍵にふれたと思ふと、やさしい沈んだ調は、ちやうど東の空に上る月が次第々々にやみの世界を照らすやう、一転すると、今度は如何にもものすごい、いはば奇怪な物の精が寄集つて、夜の芝生にをどるやう、最後は又急流の岩に激し、荒波の岸にくだけるやうな調に、三人の心はもう驚と感激で一ぱいになつて、唯ぼうつとして、ひき終つたのも気附かぬくらゐ。
「さやうなら。」
ベートーベンは立つて出かけた。
「先生、又お出で下さいませうか。」
きやうだいは口を揃えていつた。
「参りませう。」
ベートーベンは、ちよつとふりかへつてめくらの娘を見た。
彼は急いで家に帰つた。さうして其の夜はまんじりともせず机に向つて、かの曲を譜に書きあげた。べートーベンの「月光の曲」といつて、不朽の名声を博したのは此の曲である。
若干、注釈する。「彼は再びピヤノの前に腰を下した。」のところは、改行すべきところかどうか、判断が難しかったが、一応、改行しておいた。
「直にひき始めた」の「直に」は、〈スグニ〉とも〈タダチニ〉とも読める。
「急流の岩に激し」の「激し」の読みは、〈ゲキシ〉であろう(「ぶつかり」という意味)。