◎手紙は、書き直されたものが手渡された
昨日の続きである。大佛次郎の『ドレフュス事件』を、『大佛次郎ノンフィクション全集 第1巻』(筑摩書房、一九七一)で再読していたが、数日かけて、ようやく読みおえた。
この全集第1巻には、『ドレフュス事件』と『ブゥランジェ将軍の悲劇』の二篇が収められている。渡辺一民氏の校訂・解説によるもので、事項注解(校訂に際しての注を含む)、固有名詞注解(索引を兼ねる)、「ドレーフュス事件略年表」、「ブーランジェ将軍事件略年表」に加え、地図二葉まで付いているという、至れり尽せりの編集となっている。
惜しいことに、一一九ページ下段に重大な誤植がある。「千八百九十六年六月五日」とあるのは、「千八百九十九年六月五日」でなければならない(ドレフュスが、再審決定を知らされた日である)。
さて、ドレフュスが「悪魔の島」に流されたのは、一八九五年二月のことであった。この島におけるドレフュスの生活を、大佛次郎『ドレフュス事件』は、次のように描写している。
事は滞りなく決定された。ドレフュスを護送する船は、二月二十一日に本国の海を離れた。
サリュ列島の気候はひどいものだった。一年を通じての暑熟に加えて、雨が降り出すと五カ月の間、空が蓋をされたようになるのである。島全体がごろごろした岩で、樹木は殆ど見られない。岩ばかりのところに熱帯の日が燬く〈ヤキツク〉ように烈しく射す〈サス〉ので、並の人間が住んでいよう筈がない。
囚人は島の内だけは自由に歩いてよいのである。小屋に住んで荒地を耕すのである。けれどもドレフュスは、普通の囚人並に待遇することは出来ない。ほかの者から隔離して、列島の中一番小さいリイル・デュ・ディアブル(悪魔島)と云う、島と云うより巨きな岩の塊で、最近まで癩病患老者を置いてあったところへ、小屋を建てて監禁するのだった。
小屋は四方に高い垣根を繞らし〈メグラシ〉てあった。見えるのはぎらぎらした空だけだった。それと壁も同然に単調な四方の海だけである。
日夜衛兵が一人附いて門のところにいる。これもドレフュスと口をきくのは禁じられていた。ドレフュスの身柄に附けて来た役所の書類には、「頑強なる悪人。憐憫〈レンビン〉を要せず。」と明瞭に書いてあったので、取扱いは最初から苛酷であった。
リュシイ〔ドレフュスの妻〕が同行を願い出ていたが、勿論これは許されなかったので、顔を見ていても口をきかない衛兵だけが、ドレフュスが自分以外に見る人間であった。
ドレフュスは、すぐ熱病に罹って苦しんだ。それがなおる頃になると、意志の強いこの男は、この新しい境遇に馴れようと努力した。炎熱にも、単調な自然にも、負けまいとして張り合った。
幸い本だけは貰えたので、英語と数学を勉強始めた。それから書くこともありようのない単調な毎日毎日の日記を書くことにした。こうしていて、時に、あるいは一生こうしていることになるのではないかと思うと、発狂しそうな気持になる。〔三〇~三一ページ〕
ドレフュスは、このように過酷な囚人生活を送っていたが、最初の数年間は、それでもまだ、比較的にマシだったのである。一九九七年ごろから、彼に対する扱いは、さらに厳重なものになった。これは、ドレフュスは冤罪だという言説が広まるのにともなって、彼を島から救い出そうという計画あるという噂が出たことに、当局が過敏に対応したものであろう。
再度、大佛次郎の文章を引用する。
千八百九十八年に入ってからは、絶えず勇気を持たせる役をしてくれたなつかしいリュシイの手紙さえ、当人自筆のものを渡されるのは稀れで写しを渡される場合が多くなっていた。またリュシイに渡るドレフュスの手紙は、全部、他人の筆跡で書いたものだった。夫のものでない、妻のものでない、と疑えば疑うことが出来るのだった。
島にいる夫にも、本国にいる妻にも、この時分が、不安と苦悶の最も耐え難い時であった。〔九六ページ〕
大佛次郎は、ドレフュスの手紙、あるいは妻リュシイの手紙が、なぜ「代筆」されたものになったかについて、適切な説明をしていない。これは、当局が、「秘密の通信」を避けようとしてとった措置であった。
今月一五、一六日のコラムで、英語雑誌『青年』第二巻第一一号(一八九九年一二月)に載った「ドレフュス事件」(THE DREYFUS CASE)という英文を紹介した。そこには、「妻からの手紙も、そのまま、受け取ることはできなかった。秘密の通信を防ぐため、手紙は、文章の順序を入れ替え、書き直されたものが手渡された。」( not permitted even to receive hie wife's letters until they had been so rewritten, the order of the sentences so altered, as to make secret communication impossible. )という一節があった。
この箇所に関して、『青年』誌の編集者は、「西洋には手紙を一行置きに読むとか又は縦に読むとかして秘密の通信を受くる方あり」と注釈している。この注釈は、「夫のものでない、妻のものでない、と疑えば疑うことが出来るのだった」という大佛次郎の情緒的なコメントに比べれば、はるかに有益だと思う。いずれにしても、英文「THE DREYFUS CASE」の筆者が伝えようとしたドレフュスの通信状況は、一八九九年以降のものだったと考えてよいだろう。
ちなみに、『青年』誌の第二巻第一一号が発行されたとき、一八九七年生まれの大佛次郎は、まだ数えで三歳だった。