礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎教授に、遡って名誉教授を発令

2015-12-17 05:00:32 | コラムと名言

◎家永三郎教授に、遡って名誉教授を発令

 歴史家の家永三郎は、「東京教育大学名誉教授」として知られているが、彼が東京教育大学から名誉教授を発令されるに際しては、かなり複雑な経緯があったようである。
 昨日、研究上の先輩である林聰〈ハヤシ・サトシ〉さんから、その「経緯」についての資料を拝受した。先日、拙著『独学の冒険』を謹呈したところ、そこに、「家永三郎名誉教授」について言及があるのに目をとめられ、「資料」を送付してくださったのである。ちなみに、林さんは、東京教育大学在学中、家永三郎教授の講義を受講されたという。
 その資料というのは、森岡清美さん(東京教育大学名誉教授・成城大学名誉教授)の『ある社会学者の自己形成――幾たびか嵐を越えて』〔シリーズ「自伝」my life my world〕(ミネルヴァ書房、二〇一二)からのコピー、具体的には、同書の第八章「母校廃滅」のコピーのことである。
 森岡さんは、東京教育大学が廃校になったときの文学部長、つまり最後の文学部長を務められたが、この本を読むと、当時、家永三郎教授の「名誉教授発令」の当否をめぐって、同大学の評議委員会の内部で、厳しい意見の対立があったことがわかる。
 さっそく、引用させていただこう。

名誉教授問題 一九七七年度最初の評議会で名誉教授の選考が行われ、文学部から定年退官四氏、他大学転出三氏を推薦し、定年退官の家永三郎さんだけが保留となった。家永さんは教授歴二七年余で、教授として二〇年以上という大学が定める資格要件を充足しているうえに、若くして日本学士院恩賜賞を授与された高名の日本史家であるから、名誉教授ごときなんの問題もないはずであるが、「辞職勧告」というケチがついていたのである。
 先に教官選考規準を決議した評議会は、紛争責任検討委員会なるものの報告に基づいて、一九七〇年九月、文学部教授会に紛争の主要な責任ありとし、指導的役割を果たした入江勇起男〈イリエ・ユキオ〉・星野慎一・家永三郎の三教授はその責任を負って辞職すべきである、との辞職勧告を決議した。紛争初期の文学部長であった入江・星野両氏は、「大学の管理上および実質上の指導を誤った責任」を問われ、管理職に選ばれたことがない平〈ヒラ〉教授の家永氏は、「その行動により紛争を激化させた責任」を問われた。
 家永さんは先の教授会出席率が九八%というきわめて忠実な構成員で、常に誠実に協議に参加し、整然とした議論で指導的な役割を果たしてきた。ただ、時により議論が尖鋭になりすぎることがあるので、学部長などの管理職に選出されなかったが、誰しも家永さんを信頼し尊敬し、辞職勧告に憤らぬ者はなかった。教科書裁判で文部省と戦っている家永氏を攻撃することは、文部省への援護射撃になる。意図はどうであれ、効果はそうであった。
 星野・入江両氏が一九七一年度末をもって退官したとき、文学部からの名誉教授推薦にかかわらず、辞職勧告を理由に否決され、以後連年両氏を推薦しては、否決されつづけた。そして家永さんが定年退職となるや、名誉教授案件として連鎖的に保留となったのである。〔大山信郎〕学長は家永さんを名誉教授にすることに賛成であった、他学部長が同意を渋るのは、先に辞職勧告を決議しいま筑波大を牛耳っている人たちから、筑波大へ移行するさい、あるいは移行後、不利益な処遇を受けるのではないかという、危惧ゆえであった。
 私は家永案件を夏休み前に解決したいと考えた。それには、辞職勧告とできるだけ結びつかないアプローチを選ばねばならぬ。その最終の手は、星野・入江案件を断念することを条件に、家永案件の合意を求めるということであった。これはどうにか成功して、六月下旬の評議会では全会一致で承認され、遡って他の六人と同じ四月二日付けで名誉教授の件が発令された。夏休み後の案件解決であれば、いくらなんでも四月の発令にはできない。
 名誉教授の辞令は大学へ出頭して学長から渡されるものであるが、こんなに遅れたのに家永先生のような偉い方を呼びつけるわけにはいかないから、貴君がお宅まで届けてくれまいか、という学長の指示により、西武池袋線大泉学園駅に近いお宅に先生を訪ねたのは、七月中旬のことであった。四月二日の日付と、辞職勧告が自然消滅になったと言って称号授与の効果を喜んでくれた。家永さんに辞令をお渡ししたとき、これで生前叙勲の候補となりますね、筑波大がどう出るか見ているだけの価値はあります、と言ったら、先生は微苦笑されただけでとくに応答がなかった。
 教科書裁判で正しい歴史認識のために闘った家永さんこそ、文化勲章にも値する功労者であるが、紫綬褒章すら授与されず、八九歳まで存命されたが、生前叙勲の予報があったとは、ついぞ聞いたことがない。政府がとりしきる栄典制度は、国民のためというよりは政府のために役だった人を顕彰することで、政府に批判的な言動を自主規制させ、迎合的な言動を奨励する潜在機能をもつ制度であることを、家永さんの一件が示唆している。
 家永さんは退職後中央大学に職を得られたが、七〇歳で退職された後、旧教育大文学部の会などでお会いすると、肩書きがなくなった今、あなたのお蔭で名誉教授の肩書きを使えるので有難いと、何度も礼を言ってくださった。生前叙勲では空振りであったが、意外なところでお役にたっていたのである。【以下、略】

 東京教育大学名誉教授・家永三郎という呼称の背後に、こうした「ドラマ」があったことを、この資料を読んで初めて知った。森岡清美さんの尽力がなければ、家永三郎は、「東京教育大学名誉教授」の称号は得られなかったであろう。また、その陰で、入江勇起男(英文学)・星野慎一(ドイツ文学)両教授は、ついに、名誉教授の称号を得ることできなかったのである。
 なお、閉学直前の一九七八年二月の評議会で、森岡清美さんは、入江・星野両教授の名誉教授の件を再審議するように要望し、実際、この件は、三月の部局長懇談会の議題となった。しかし、やはり、「阻まれた」とあった。

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