礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

井上赳と「太郎花子国語の本」

2015-12-12 05:11:23 | コラムと名言

◎井上赳と「太郎花子国語の本」

 昨日の続きである。昨日、国語研究所長の初代所長をつとめた西尾実が、「太郎花子国語の本」について論評している文章を紹介した。この文章は、同教科書に深く関与した井上赳〈イノウエ・タケシ〉が、ある文章のなかで引用しているものであって、西尾実の文章のタイトル、発表誌、発表年代などは不明である。
 井上赳の、その文章というのは、国語教育講座編集委員会編『国語教育問題史』(刀江書院、一九五一)に収録されている、井上赳「国語教育の回顧と展望 二 ――読本編修三十年――」である。井上の同文章は、全部で八節からなるが、最後の第八節で井上は、「太郎花子国語の本」について回顧している。
 本日は、その第八節を紹介してみよう。

 八 太郎花子国語の本作成
 作家坪田譲治、斎田喬〈サイダ・タカシ〉、私の旧友文博〔文学博士〕島津久基、新進の実際教壇者松尾〔弥太郎〕、竹内〔良助〕、本間〔平安子〕、それに社〔日本書籍株式会社〕を代表する私〔井上赳〕、高橋〔武馬〕、服部〔直人〕――つまり作家、学者、実際教育家、編修者のチームワークにおいて、新しく計画し作成したのが、「太郎花子国語の本」十三巻である。今その方針を簡単に簡条書にすると、
一、新日本の児童を象徴する太郎花子兄弟、および幾多の友人郷党の人々の群像をえがき出し、望ましい民主社会の展開の間に、心ゆたかに成育させる。――これによって在来の読本が、かって企て〈クワダテ〉及ばなかった児童の読書興味を喚起し、読書力を健全に育てる。
一、言語は、児童の精神発達と社会生活の展開に注目して表出・表現の系列を立てる。
一、興味ある生活の話題を中心とする話題単元を設定し、これを手がかりとして、言語の諸活動を追求させるよように仕組む。
一、人物の主体的また客観的叙述の間に、あいさつ、対話、話し会い、会議等話しかたに関するもの、日記・手紙・記録・報告・作文等ひろく作文に関するもの、詩、童話、児童文学、科学文学、伝説、物語、事実談、逸話、伝記――それらの散文的、詩的、劇的な表現――等に関する文学教材を、あるいは書中の人物の活動と直結し、あるいはエピソードとしてさしはさむ。――これによって題材が常に前後関連をますと共に、興味ある排列の変化と、文種のほとんどあらゆるものを掲げることを期する。
一、各巻末に「問題」(上級では「研究と問題」)の単元をおき、本文の言語活動の展開として、言語教育の実質的な教材を排列する。ことば遊び、ことば集め、ことば入れ、絵日記、日記、かるた作り、紙しばい、劇化、はがぎ文、手紙、とどけ書、記録、報告文、かるた作り、電話のことば、かべ新聞、読書ノート、男と女のことば、方言と標準語、語法一般、文字・言語・文章・文学の由来、表現の考察鑑質、事実と創作、ことばつかいと敬語等、これらを集成すれば少くとも言語教科書の骨子が成り立つように仕組む。
一、各巻末には、アメリカ教科書に学び厳密な語い表を附ける。語いは、低学年においてもっとも制限し、反復叙述を巧みに利用して同語の頻出を期し、言語のドリルに適応させる。
【一行アキ】
 以上が、いわば私の長い編修の帰結として考え得た新方針であり、これによって「太郎花子国語の本」は多くの検定国語の一本として世に出ることとなった。
 検定教科書は営利会社によって発行される一種の商品であるので、ここで私がこれ以上に自分の信するところを主張すれば、いたずらに宣伝がましく聞こえる。幸い、今日百花咲乱れるように出そろった数ある小学国語の中にも、とくに本書のため国語研究所長西尾実氏の書かれた批評の一文がある。これを左に転載させていただいて、私の編修三十年の結尾としたいと思う。
【一行アキのあと、西尾実の文章が引用される】

 井上赳(一八八九~一九六五)は、国定教科書『小学国語読本』(サクラ読本)の編集にあたった文部官僚として知られているが、戦後の一九四六年(昭和二一)から翌年にかけたは、衆議院議員をつとめたという(ウィキペディア)。
 上記の文章によると、「太郎花子国語の本」の作成にあたっては、日本書籍株式会社を代表する立場にあったようだ。同教科書の編集の実質的な中心人物であったと見てよいだろう。ただし、当時の井上の、同社における役職名などは、まだ調べていない。

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コメント (1)
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