礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

野戦自動車廠部隊では、隊長らが連日、花札賭博

2017-01-27 04:02:26 | コラムと名言

◎野戦自動車廠部隊では、隊長らが連日、花札賭博

 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)の紹介を続けたい。本日、紹介するのは、「第二章 青雲の記」の「大阪憲兵隊大手前分隊」の節で、これは、一昨日および昨日に紹介した「憲兵学校から少尉任官まで」の節に続く節である。

 大阪憲兵隊大手前分隊

 私は、昭和十五年(一九四〇)九月末、新任少尉として大阪憲兵隊本部に着任し、隊長大木〔繁〕少将に申告すると、隊長は私を見るなり、
「お前のことは、麹町憲兵分隊長当時から、よく知っている。将校になって注意することは、部下はお前のような正直者ばかりと思うとあてがはずれる。特に大阪の憲兵は、東京の憲兵と異う〈チガウ〉。表裏があるから、裏面を読みとることが必要である」と、
 いわれたことをいまも覚えている。
 大阪商人という言葉は聞いていたが、大阪憲兵という言葉もあるものかと、意を改めるところがかあった。
 偕行社住宅は満員だったので、佐専道〈サセンドウ〉の軍人住宅という、造兵廠の雇員〈コイン〉や営外居住准、下士官の住居用に建てられた住宅団地に一時入った。
 そこで暫らく、家族や荷物の到着するまで、別居生活を送った。
 その別居生活中に、共同食堂で知ったことであるが、東条〔英機〕陸相の実弟が、この住宅に住んでいて、東条夫人がときどき訪れるということであった。
 私は、大手前分隊附将校を命ぜられて、小笠原少佐の下で、人事業務や警務指導にあたった。
 分隊には出口准尉が現役で、後藤、三浦の両准尉は五十才を過ぎた応召者であった。下士官、兵は現役、応召兵合せて六十名程がいた。
 後藤准尉は和歌山で、アンゴラ兎を飼育し、その飼育法を出版する程の人であり、三浦准尉は朝鮮で退役後は警察署長も勤め、応召前は仙台で司法書司〔ママ〕をしていたという人物である。この外〈ホカ〉応召者の中には、小池曹長、大島曹長(何れも准尉となる)などがおり、人生体験の多い人達がいて、得難い助言をしてくれたものである。
 分隊は、特高、司法、警務、庶務の各班に分れていたが、分隊特高班の二階には隊本部の特高課があって、山中少佐以下の錚々たる連中がいた。分隊特高業務は割合に少なく司法班は、大阪被服廠の汚職事件の捜査を終えたあとであり、逃亡兵の捜査手配に追われる程度であった。警務は大阪師団長が李王垠〈ギン〉殿下であって、その警衛や、造兵廠の警備には三浦准尉以下十数名を分駐させており、大阪駅の軍事輸送の取締や、管内の軍事施設、軍需工場の防諜取締に任じていた。
 この頃は、一般部隊にも召集兵が多く、軍紀風紀もようやく弛緩のきざしが見え始めて、軍紀風紀粛正に関する師団司令部の将校教育に講演など命ぜられたことがある。
 当時大阪所在の部隊の中には相当乱脈なものもあった。一例をあげれば、信田山〈シノダヤマ〉廠舍に編制集結中の野戦自動車廠部隊は、輪送の関係で三ヵ月余りも滞在していたのであるが、純真なる一下士官の密告によって、隊長以下幹部が連日大々的に花札賭博を開張し、兵の糧食をかすめて、毎晩のように大酒宴を行なっているのみでなく、幹部は無断外泊し、応召の曹長など一ヵ月余りも帰宅して隊に戻らないという乱脈さであるとのことであった。
 そこで私は内偵のため憲兵を変装潜入せしめて、純真な下士官兵の協力のもとに、宴会と賭博の開張中を監理指揮官の許諾のもとに検挙したことがある。
 この頃、国内では大政翼賛会が発会されたのである。
 市公会堂では、翼賛会の講演会が開催されて、全体主義の理念がはじめて講演され、ヒットラーやムッソリーニの独裁が、東洋理念、特に日本の仁俠道〈ニンキョウドウ〉にならったものであることも講述され、一億一心滅私奉公、大政翼賛などの掛け声がはなばなしく叫ばれることとなった。
 勤労新体制要綱が決定され、産業報国会が創立され、軍需産業の総動員化が着々と進められた。
 昭和十六年〔一九四一〕一月には、衆議院議員選挙法も改正されて、翼賛選挙が行なわれることになった。一方七月には、労働総同盟も解散となり、国内には労働組合は存在しなくなったのである。
 国外では、日独伊三国同盟が締結されて、独乙〈ドイツ〉はフランスを占領し、南京政府の設立も承認され、満州国皇帝の訪日などもあって、日本の大陸政策も、ようやく軌道に乗ったかの観があった。
 私が、大阪に着任して間もない頃である。
 大阪ホテルから、笹本代議士〔ママ〕が電話をくれて、私のために一席を設けたいとのことであった。
 笹本代議士は、私が麹町分隊で、特高かけ出しの頃、政治情勢など詳しく連絡してくれた人である。当時は院外団生活で、中野大和町の小さな家に住んでおられ、子供さんが多く奥様も世常〔ママ〕の若労をなさっていた頃であった。
 それから十年、氏は代識士となり、産報〔大日本産業報国会〕の幹部となっているのに、こちらはやっと憲兵少尉という対比である。
(同氏は戦後も群馬から衆議院議員に数回当選し、防衛次官をしておられた頃、代々木上原の邸宅を訪問し懐旧談をしたことがある)
 そのときは料亭つるやで会食し、最近の政界動静を語り別れたが、翌日大丸呉服店から呼出しがあって、私に柱時計と靖弘に腕時計を贈ってくれた。【以下、次回】

 文中、「笹本代議士」とあるのは、笹本一雄(一八九八~一九六四)のことであろう。ただし、笹本一雄が衆議院議員になったのは、戦前・戦中ではなく、戦後の一九五三年(昭和二八)のことであった。

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