礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

英雄は理解されぬまま小人に亡ぼされる

2017-01-23 03:31:00 | コラムと名言

◎英雄は理解されぬまま小人に亡ぼされる

 今年になって読んだ本で、今のところ、いちばん印象に残っているのは、片岡啓治『幻想における生』(イザラ書房、一九七〇)という評論集である。
 この年になると、本でも映画でも、新しいものを読もうとすると、それなりの決意がいる。しかし、若い時に読んだ本を読み直したり、若い時に観た映画を見直したりすることは、懐かしいことであり、また楽しいことでもある。
 しかも、若い時には読み取れなかった箇所に、改めて感心したり、若い時には見落としていた「見どころ」や「伏線」を発見したりということがあって、これらもまた有意義なことである。
 さて、片岡啓治の『幻想における生』は、一九七〇年代に新刊書店で買い求めて、一読した記憶がある。しかし、新ためて手にしてみると、ほとんど内容が思い出せなかった。ただし、「6 『共同幻想論』批判」と「あとがき」だけは、「いちど読んだ」記憶があった。
 本日は、「6 『共同幻想論』批判」の冒頭部分を紹介してみたい。

 6 「共同幻想論」批判

「共同幻想論」の序に、吉本隆明氏のこんな言葉がある。それは前著、「言語にとって美とはなにか」をめぐって、ある雑誌の編集者との対談から引用された言葉であるが、「僕の見た限りでは、おそらく全部は見ていないでしょうけれども、そういう感じの批判(前掲書「言語」にたいする・片岡)というものは一つもなかったと思うんです。まだほんとに読まれていないという感じが一番強いですね。ほんとに読まれていないからまだ生命はあるはずだといいますか、前書きにも、一〇年ぐらいは先に行っているはずだと書きましたけれども、それは訂正する必要はますますないというような感じがするんですよ」
 この言葉はある正当さのひびきをもちながらも、私に、三島由紀夫の長編「鏡子の家」の終りちかくにあらわれる一節を思いおこさせる。
 小ジムからうってでたボクサーの深井峻吉が、チャンピオン・ベルトを獲得した夜のことである。祝宴をおえてパトロンやとり巻きたちと別れた彼は、「承認された力の携行者であり、選手権という光り輝やくものの運搬者」と自らを感じながら、一人夜の町を歩いてゆく。そして、とある酒場にはいる。そこで、ひとりゆっくりとチャンピオン・ベルトを眺めようとするのだが、バーの女からそれをみせろとせがまれて、「職業的羞恥、専門的意地悪とでもいうべきもの」のためにそれをことわる。そして、そのためにチンピラにからまれ、拳を石で叩きつぶされてしまう。
【一行アキ】
 英雄が理解されぬまま小人〈ショウジン〉に亡ぼされるという悲譚は、古今をとわずつねに存在しつづけてきた。ただそれはつねに、英雄の悲譚としてのみ存在して、小人の物語として存在したことはなかった。このエピソードもまたそうした文脈のなかで語られ、非は小人たるチンピラの側にあって、理は小英雄峻吉の側にあるという眼差しのもとで語られている。私は、べつにその小人、チンピラの側に組して、そちらにも三分の理がある、といったことを語ろうなどというのでは全くない。
 ただ事実的にいうならば、英雄はただ小人との相対的な相関のなかでのみありえ、理解された英雄はもはや英雄ではなく、亡びをしらぬ英雄は英雄ではありえず、英雄はただ小人の無理解にかこまれ小人に亡ぼされることによってのみ、本来の英雄性を獲得しうる。さらに、英雄のそうした悲運は、決して無根拠の天災のようにしておとずれるのではなく、つねにその人物自身の行為に由来し、関係のなかで悲運として形作られてゆく。その行為のあらわれは、たとえば「職業的羞恥」でも、あるいは自負でも、いかようにもありうる。ただ、およそ人の運命はその人間自身に何らの由来ももたず無関係におとずれることは決してありえず、その人間の存在と行為そのものがつねに発源となった関係のなかで形作られてゆくものであり、従ってそうした意味でおよそ運命とは己れ自身が招くものである、ということは確実にいいうる。とともに、あらゆる者が己れの生についてそれなりの内的論理をすべてもちうるのでありそれはつねに己れの存在の正当性の根拠となる。それは他者の評価、社会的評価などとは全くかかわりなく、人がおよそ生きて有るかぎりは一人一人がその生活史を負っていることの必然の結果として、己がじしの内的論理が人にもたらされ、それは彼にたいして彼の存在の正当性を鼓舞する。英雄が己れの存在の正当性について確信をいだくなら、小人もまた、それが人間として人類としてこの世に生みおとされていかぎりで、己れの存在の正当性について確信をいだくこともまた不可避であり、その次元において、英雄と小人の正当性は等価である。小人のその確信が自己満足であるというなら、英雄のそれもまた自己満足であり、後者のそれが正当であるなら、前者のそれもまた正当であるほかはない。
 かくて、時に英雄にとって理であるものが小人にとって非としてあらわれ、英雄の滅亡を非とする英雄譚の通念に反して、彼を亡ぼした小人にとってその行為は当然のことながら理であらねばならない。それは要するに、人間の関係がそうした相互否定性においてなりたっているという事実をあらわしているだけのことであって、人間の形作ってきた世界の構造が現にそうであるかぎりにおいて、己れの生活史を楯とする正当性の主張は、他者がそれなりの生活史を負ってする正当性の主張にたいして、その他者の生活を包摂しうるのでないかぎりは一方的に正当であることはできず、そうした関係のなかで彼がいかに己れの正当性を主張し保証してみたところでそれは主観的な定言以上にでることはできず、もしそれが思想の形でいわれるなら、その思想のなかに全人間の全生活史が包摂されうるだけの抽象度がそなえられていないかぎりで、その思想は普遍の名をうることはできず、部分的な従って主観性の独断以上にでることはできず、従って他の主観性にたいして一つの主観性として、一つの見解にたいする他の解釈としてあらわれることしかできない。にもかかわらず、なお普遍性を求めるとしたら、それは主観性の自由であるが、要は自己満足にすぎず、他のあまたある正当な自己満足と同じだけの正当性がゆるされるというだけのことでしかない。
 束の間のあとにせまる悲運もしらず、「承認された力の携行者であり、選手権という光り輝やくものの運搬者」と感じて、「うっとりこれ(チャンピオン・ベルト)を眺める」峻吉の姿に、かって「…金平ジムのような小ジムで黙々とハード・トレーニングにいそしんできたもの」と自らを規定し、いま「共同幻想論」の序で、「一〇年ぐらいは先にいっているはず」と重ねて語る吉本氏の姿がオーバーラップしてせりあがってくるのを、私はとどめることができない。すでにして亡びに足をふみいれた者の歩みに立ちあっているといえばよいのだろうか。

 これを紹介したのは、「吉本隆明論」としてユニークであるのみならず、「真理」や「正義」をめぐる議論、あるいは「ポピュリズム」をめぐる議論としても、興味深いものがあると思ったからである。【この話、続く】

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