礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ニヒリズムの本を翻訳してみないか(吉野作造)

2017-01-13 03:42:25 | コラムと名言

◎ニヒリズムの本を翻訳してみないか(吉野作造)

 日本法社会学会編『法社会学』の第二八号「現代社会と法」(有斐閣、一九七五年一〇月)から、風早八十二の講演記録「戦前の日本型ファシズムと法学及び法学者」を紹介している。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行して次のように続いている(一一八~一二三ページ)。

 さらに、その年〔一九一八〕の暮、これは後で知ったことでありますけれど、その年はちょうど東大の新人会――これは黎明会と共にレジュメに書いておきました大正デモクラシーの花形団体のひとつでありますけれだ――その新人会が創設された、その記念という意味もあって、三高の先輩である麻生久とか、赤松克磨、平貞蔵、山崎一雄といった連中が京都に乗り込んで来まして、市会議事堂の地下室で「デモクラシー講演会」を開いたわけです。私は、もちろんそこへ行って下は茣蓙〈ゴザ〉が敷いてある土間であったわけですが、その茣蓙にあぐらをかいて熱心に聞きました。「軍閥、官僚打倒」であるとか、あるいは「デモクラシー」であるとか……民主主義という問題を初めて、そこで聞かされたわけですね。今度は、意識の面でも、そういうことで、米騒動のことや賄のおばさんにどやしつけられたといういろんなことが重なりまして、そこで本当にうかうかしてはおれんと、全く偸安〈トウアン〉の夢をむさぼっていた高校の三年でありますが、そういうことで、いよいよ笈〈キュウ〉を負うて上京ということになったのであります。なぜ東京へ行ったかということになるんですけど、私としては、京都の空気が沈滞していて、なんとなくいっぺん東京へ出てみたいという小児的なあこがれがあったのかもしれません。なぜ法科に入ったかについて申しますなら、実は私はもともと経済をやりたかったのですが、たまたま、京大の法科が分れて経済学部が創設されるにあたって、東大の経済学の河津〔暹〕教授が三高出身のゆかりで三高にやってきて、歓誘の講演をされたのを聴講しましたが、大変失礼とは思いますが、あまりにお話がつまらなくて、入る気にならなかったというわけです。そうなると、法科には、美濃部達吉、上杉慎吉、牧野英一、穂積重遠〈シゲトオ〉、鳩山秀夫、それに、政治学の吉野作造というようないきのいい諸先生が綺羅星のごとくに競いあっている。やっぱり、東京にいくなら法科しかあるまいということになったわけです。
 三高のYMCAの寮にいた関係で、東京に行っても、最初は本郷追分にある東大YMCA会館の寮に入りました。ところで、会館及び寮の経営主体である理事会は、理事長が吉野作造教授、理事は先輩と学生とから若干名づつ選出となっていたと思います。そして、二高から来た住谷悦治〈スミヤ・エツジ〉君と私とは、共に一年生であったのに、いきなり理事に選ばれました。ここに、吉野先生の御指導が始まり、又、住谷悦治君との現在まで変らぬ親交のはじまりでもあったのです。あとで当時の歴史をふりかえってみると、吉野先生は、単なる東大教授やYMC A理事長にとどまるものでなく、大正デモクラシー運動のおしもおされぬ中心人物であったわけで、私は、上京して早くもこのような貴重な人物の直接の御指導を受ける幸運にめぐまれたわけでした。
 ここで同時にふれておかなければならないのは、新人会との関係です。前年の暮に赤松克磨氏らが京都にのりこんできて、デモクラシー講演会を開いたことは前に述べましたが、そのさい、いわゆるヒモをつけられたと申しますか、私は上京まもなく、山崎一雄氏などを通じて、さかんに新人会への入会勧誘を受けました。しかし、私は、すぐにはこれに応じなかったのです。それにはこういうわけがありました。実は私は、新人会というものを買被って〈カイカブッテ〉いた、と申しますか、これはなかなか大変な団体だ、うかうか入れないと。へたに入っていざというときに退却する。そういうだらしないことではだめだ入るからには、しっかり覚悟が必要だ、と。私はちょうどその頃ツルゲーネフをさかんに読んでおりまして、たとえは「父と子」とかあるいは「その前夜」とかそれから「ルージン」を読んでおりました。この「ルージン」という男が、はなはだ気にくわない。彼はいざとなった時に、逃げ出してしまう、それで「ルージン」になりたくないからもう少し考えさせてくれということで、慎重に構えたわけです。しかし、結局一年あとにはですね、どうしてもこれは入らないと良心にすまない気持になって、入っちゃったわけです。
【中略】
 新人会は誰しも大正デモクラシー運動を見る場合に、欠かさないでこれをあげる団体でありましたが、一体、どういう性格のものであるかと。これは仲々かんたんにはいいがたいのです。【中略】新人会は、それをマルクス・レーニン主義であるというふうに割り切ることは到底できません。その証拠に、われわれは新人会で一体何を勉強してきたのか。同志たちは、銘々に、何かひとつの本を手がけて、語学の勉強も兼ねて翻訳しておりました。現実に出版もやりました。たとえば、さきほどの新明正道〈シンメイ・マサミチ〉君にしても、マルクスの『哲学の貧困』でなしに、「フルードン」の『貧困の哲学』を勉強している。マルクスの『経済学批判序説』でなしに、プルードンの『財産とは何ぞや』の翻訳を手がけている。マルクスによってすでに徹底的に批判されたプルードンを何もわざわざ選択することはあるまいにといわれるかも知れませんが、実さいは、まだ両者の選択以前というのが本当のところです。千葉雄次郎君にしても、ラファルグの『社会主義社会観』を訳しましたし、私は私で、イタリアのアルノードの『ニヒリズムとニヒリスト』をアンリ?ベランジェーの仏訳(Le nihilisme et les nihilstes)から重訳し、風間徹二というべンネームで大燈閣から出版しました。これは当時青年のあいだによく読まれたツルゲーネフの小説を通じて関心が高かったロシアのニヒリストの思想と行動形態を分析したものですが、著者自身の立場は、これに反対であり、ツァールの専政に対し、ロシアを救済するものは、決してニヒリスムではなく、立憲民主主義に拠るべきだというものでした。ちなみにこの本は、吉野作造先生が、その書庫にあったものをとり出して、ひとつやってみないかと勧めてくれたものでした。それから一年下の黒田寿男〈ヒサオ〉君もたしか、エルツバッヘルの『アナルヒルムス』を翻訳出版したと記憶します。【中略】
 これよりさき、わたしたち新人会本部は、かねてから、公開演説会の企画を実行してきましたが、実は、私も、一九二〇年〔大正九〕十二月十五日(まだ大学二年生のとき)、京大の三十二番教室という大教室でおこなった「新人会演説会」で、おこがましくも「唯物史観から見た日本歴史」と題して、二時間余にわたる講演をやったことがあるのです。これというのも、私もその頃、ようやくマルクス主義そのものの勉強をはじめていた余勢にほかなりません。その時熱心に聴いてくれ鋭どい質問をあびせた人々の中で、今でも思い出すのは、私の上京当時の東大キリスト教青年会館の寮で 一緒だった一年先輩の土屋喬雄君のことです。彼は、はじめ内村鑑三先生に傾仆していたのですが、在学中、だんだんに唯物論者になり、或る日ついに愛蔵の『聖書の研究』を全バックナンバア束にして売り払い、かわって、河上肇博士の『社会問題研究』が、その書棚に大きな位置を占めることになりました。私が卒業した時にも、すでに経済学部助手になっていた彼は、私の卒業祝にエンゲルスの『私有財産及び国家の起原』のディーツ版を贈ってくれました。それは今でも私の書庫に大切に保存されています。彼はその後、教授になり、著名な経済史家になったことは、みなさん御承知のことと思います。
 私が新人会本部に合宿していた一九二一年当時のもうひとつ特筆しておきたいことは、ちょうど当時ロンドンに亡命中であった野坂参三氏が、新人会本部あてに労働運動・社会主義運動関係の小冊子類を、束にして、たびたび送ってくれたことです。これは仲々できないことで、後で思い出してみると、本当に敬服すべきことでありました。と申しますのは、私など、長くヨーロッパに留学していたわけですが、自分の勉強で精一杯であり、僅かな滞在費を割愛して、見ず知らずの後進のために、有益と思われる文献を買い求めて、面仆〈メンドウ〉な小包郵便などにして送るほどの心の余裕はなかったように思うからです。
 然し、当時の新人会のメンバアは、果してそれをそれほど有がたいと感じたたかは疑問であり、送られてきた本を熱心に読んでいたのは、本部でも、千葉雄次郎君ぐらいなものだったようにおもいます。【以下、次回】

 文中、アルノードの『ニヒリズムとニヒリスト』、エルツバッヘルの『アナルヒルムス』という書名が出てくる。インターネット情報(二村一夫著作集「新人会機関誌の執筆者名調査」)によれば、それぞれ、風間徹二訳、アルノウド『ニヒリスム研究』(大鐙閣、一九二二)、若山健二訳、エルツバッヘル『無政府主義論』(聚英閣、一九二一)のことを指していると思われる。

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(2017・1・12現在)
        
1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
5位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
6位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
7位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
8位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
9位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
10位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条

11位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
12位 17年1月4日  東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる
13位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ
14位 16年12月6日 ルドルフ・ヘスの「謎の逃走」(1940)
15位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
16位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
17位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
18位 16年8月15日 陸海軍全部隊は現時点で停戦せよ(大本営)
19位 16年1月15日 『岩波文庫分類総目録』(1938)を読む
20位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした

21位 16年12月15日 イー・ザピール「フロイド主義、社会学、心理学」
22位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
23位 17年1月3日 日本は横綱か、それとも十両か
24位 17年1月2日 佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない
25位 16年8月24日 本日は、「このブログの人気記事」のみ
26位 17年1月6日  暗号連絡は、「明碼符」の数字を使う
27位 16年12月16日 マルクス主義の赤本、フロイド主義の赤本
28位 16年1月16日 投身から42日、藤村操の死体あがる
29位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     
30位 16年12月8日 ビルマのバー・モー博士、石打村に身を隠す

31位 16年6月7日 世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問
32位 16年12月12日 旋盤を回しながら「昭和維新の歌」を歌う
33位 17年1月7日  軍に賢い戦争指導者なく政府に力ある政治家なし
34位 16年12月14日 法令の改廃は今後もつづくであろう(1949)
35位 15年11月1日 日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)
36位 16年11月20日 多胡碑の文面は81文字か
37位 16年8月31日 美濃部達吉のタブーなき言説
38位 17年1月5日  宮崎竜介を監視しながら上海まで同行せよ
39位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード   
40位 16年12月25日 ライオンのような顔が青ざめて見えた

41位 16年2月16日 1945年2月16日、帝都にグラマン来襲
42位 16年12月1日 プロペラはボス部の工作が難しい
43位 16年12月19日 緑十字機事件と厚木基地事件
44位 16年12月13日 岩波書店『六法全書』1949年版の「前がき」
45位 17年1月8日   『日本会議の研究』の販売禁止に思う
46位 16年2月14日 護衛憲兵は、なぜ教育総監を避難させなかったのか
47位 16年12月9日 東京に4万人の幽霊人口を発見(1945年11月)
48位 17年1月10日 「持っていると長生きをする袋」をもらった
49位 16年11月29日 岡本勝治の『航空発動機主要部品工作と段取』(1944)
50位 16年8月16日 論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて」

次 点 16年10月10日 公布時の国家総動員法(1938年4月1日)

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