◎憲兵司令部は、なぜ渡辺教育総監に電話しなかったのか
全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)の紹介を続ける。
本日、紹介するのは、第二編第一章「史的展望(昭和元年より昭和十一年)」の「国家革新運動」という節にある、「憲兵司令部の昏迷と動揺」と題されている文章である。一昨日および昨日に紹介した、「『本庄日記』の謎」のすぐあとにある。
憲兵司令部の昏迷と動揺
憲兵隊中央部で最も早く二・二六事件の勃発を知ったのは、東京憲兵隊本部の特高課長福本亀治少佐であった。
非常呼集によって騒然となった憲兵司令部及び東京憲兵隊本部の動向を追うと、まず、病床にあった岩佐〔禄郎〕憲兵司令官は、総務部長矢野機【はかる】少将に後事を託して、午前六時三十分頃司令部の軍用車で雪の半蔵門に到着した。陸相〔陸軍大臣〕川島義之大将に会うためである。憲兵隊が陸相の隸下にある以上真先〈マッサキ〉に陸相に会おうとした岩佐憲兵司令官の態度は当然であった。
ところが、すでに警戒配置についた蹶起部隊(この時点ではまだ叛乱軍ではない)は、首脳部である香田〔清貞〕大尉、村中孝次、磯部浅一らが、陸相官邸で要望書を陸相に突きつけている最中で、外部から陸相への面会を許さなかった。
半蔵門に歩哨を立てて外部との連格を遮断したのは歩三〔歩兵第三連隊〕の安藤〔輝三〕中隊であったが、歩哨は岩佐憲兵司令官の軍用車を停止させてどうしても通過を許さない。岩佐憲兵司令官は涙を流して歩哨を説得したが、歩哨は命令だと頑として通過させなかった。
そこで岩佐憲兵司令官は車を淀橋の荒木〔貞夫〕邸へ向け、荒木大将宅に訪れたのが午前七時三十分頃であった。この時の状況を荒木の戦後の回想によると次のようになる。
午前七時頃、鈴木貞一中佐からの電話で事件勃発を知った荒木のところへ、渋谷憲兵隊の分隊長徳田豊少佐が蹶起部隊の配置、警備状況を報告に来た。荒木は直ちに天機奉伺と参内の準備をしているところへ、岩佐憲兵司令官が半蔵門から廻って来た。
「私が病気で寝ていたので、こんなことになって申訳がありません。どうか、お力によって青年将校を無事に還して下さい。貴方が行けば彼等はいうことをききます」
と岩佐が荒木に依頼した。いかにも青年将校に同情的だが、これは荒木の回想だからだろう。すると荒木が岩佐に警視庁側の様子を聞き、警視庁が占拠され、警視総監小栗一雄〈オグリ・カズオ〉は神田錦町警察にいることがわかった。荒木は岩佐に警視総監に隠忍自重〈インニンジチョウ〉することを伝えるように依頼して参内した。
この後、岩佐憲兵司令官は荒木邸を辞去して神田錦町警察へ行き、小栗警視総監と打合せて一旦は宮城へ参内、各関係者に会って憲兵司令部へ帰った。病人の岩佐としてはこれで精一杯であったろう。
一方憲兵司令部では矢野総務部長が東京憲兵隊長坂本俊馬〈トシメ〉大佐に命じて、情報の収集を急がせるとともに、司令部の将校にも直接状況を視察して報告させることにした。
当時、憲兵司令部の編成は次のとおりであった。
憲兵司令官 岩佐禄郎中将
総務部長 矢野機少将
警務部長 城倉義衛大佐
高級副官 菊地武雄中佐
次級副官 鎌田 浩少佐
専属副官 小笠原義一大尉
第一課長(総務・編成) 長友次男少佐
第二課長(警務) 平野豊次少佐
第三課長(外事) 長浜 彰少佐
部付将校は井部重郎、山中平三、藤本治毅、志村行雄、北田利、脇元栄蔵、中村通則、野口正雄、曽田嶺一の各大尉であった。
この日の早朝、靖国神社へ参拝した長友次男憲兵少佐は官舎へ帰って初めて事件勃発を知り、直ちに司令部へ出勤してして矢野総務部長に報告している。
また、城倉警務部長は東京憲兵隊本部に要人警戒配置を指示して視察に飛び出して行った。
事件勃発後の憲兵隊司令部は、情報不足のためたちまち混迷状態となり、多くの将校は情報収集に出かけたが、この渦中にひとり泰然自若としていたのが第二課付の北田利大尉であった。これは性格にもよるが、憲兵司令部へ戦場の矢のように殺到する緊急電話は、この北田大尉がほとんど冷静に処理していた。
ところが、陸軍省と参謀本部が蹶起部隊に占拠されたため、本拠を失った省部の関係者が続々と憲兵司令部に集まった。たちまち通信隊によって軍用臨時電話が敷設され、あたかも憲兵司令部は臨時陸軍省、参謀本部となって、憲兵司令部の業務は著しく阻害されてしまったのである。
【一行、アキ】
一方、参謀本部は参謀総長が皇族の閑院宮〈カンインノミヤ〉〔載仁親王〕であったため、事実上の責任者であった杉山元〈ハジメ〉参謀次長は、午前六時四十分頃、自宅で身辺警護に来た憲兵の来訪報告によって事件発生を知った。
杉山参謀次長は参謀本部、陸軍省、陸相及び次官官邸、さらに人事局長後宮淳〈ウシロク・ジュン〉少将宅へ電話したがどうしてもかからない。すると午前七時三十分頃になって、軍務局長今井清少将から電話があり、省部が蹶起部隊に占拠されたことを知り、憲兵司令部に集合する旨の連絡を受けた。
杉山参謀次長は参謀本部の清水規矩〈ノリツネ〉大佐(編制・動員課長)と石原莞爾〈イシワラ・カンジ〉大佐(作戦課長)らに、憲兵司令部への集合を命じて急遽自宅を出た。
杉山参謀次長が憲兵司令部へ到着したのが午前八時五十分頃、すでに今井軍務局長が来ていて、杉山参謀次長は憲兵司令部総務部長矢野少将から事件の概況報告を受けた。
そのうちに参謀本部の各課長クラス以下が到着したが、軍務局長以外の陣軍省側の幹部が来ない。そのはずである。この頃、陸相官邸では川島陸相、古荘〈フルショウ〉〔幹郎〕陸軍次官、石原作戦課長らが叛乱軍首脳部の香田大尉から要望事項をつきつけられていた。また、陸軍省軍事課長村上啓作大佐などは、何処にいるのかさっばりわからない。したがって臨時の省部となった憲兵司令部では、集合した幕僚が陸相、次官、軍事課長の連絡のないのに憤慨し、特に陸相官邸に軍事参議官真崎甚三郎大将が訪れたことを頻りに非難していた。軍事参議官の出る幕ではないというわけである。【以下、次回】
上記の文章によれば、岩佐禄郎憲兵司令官は、午前六時三十分ごろ、陸軍省のある半蔵門に到着している。この時刻において、蹶起部隊は、まだ、渡辺錠太郎教育総監私邸に到着していない(到着は、午前七時前後)。陸軍省に向かう余裕があるならば、みずから教育総監私邸に電話し、避難を勧告すべきであった。みずから電話をしないまでも、総務部長矢野機少将以下に、教育総監私邸に電話するよう指示することもできたはずだが、それもしていない。また、上記によれば、杉山元参謀次長は、午前六時四十分ごろ、身辺警護に派遣された憲兵の来訪を受けている。「城倉警務部長は東京憲兵隊本部に要人警戒配置を指示して」とあるので、警務部長城倉義衛〈シロクラ・ヨシエ〉大佐からの指示と思われるが、この時刻において、蹶起部隊は、まだ、渡辺錠太郎教育総監私邸に到着していない。憲兵司令部は、杉山元参謀次長の私邸に身辺警護の憲兵を派遣させる配慮ができたのである。だとすれば、当然、渡辺錠太郎教育総監私邸に、即刻、電話を入れるぐらいの配慮はできたであろう。なぜ、それができなかったのか。