礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宮崎竜介を監視しながら上海まで同行せよ

2017-01-05 01:42:44 | コラムと名言

◎宮崎竜介を監視しながら上海まで同行せよ

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
 上原文雄は、一九三六年(昭和一一)の二・二六事件の際は、館山憲兵分遣隊に籍を置いており、同事件については、残念ながら、特段の記述をおこなっていない。
 本日は、同書の第二章「青雲の記」のうちの、「痛恨近衛密使逮捕の顛末」の節を紹介する。この節はかなり長いので、適宜、区切りながら紹介してゆく。

 痛恨近衛密使逮捕の顛末

 これより先近衛〔文麿〕首相は側近西園寺公一〈サイオンジ・キンカズ〉を西希与志〈ニシ・キヨシ〉と変名させて上海に派遣し、英国商務官を通じて、宋子文と密会せしめた結果、蒋介石も条件次第では、停戦の意志のあることを確かめており、まず連絡に宮崎竜介を送り、次で近衛特使として秋山定輔〈テイスケ〉を南京に送り、日支停戦と日支国交調整を、根本的に解決しようとする動きがあったのである。
〔一九三七年〕八月始め、国民政府から王駐日大使宛の極秘電報があり、その秘密電報を海軍がキャッチして軍令部で解読したところ、
『北支事変の解決に関し、総統は近衛首相と意見の一致を見たるを以て、七月六日上海着の上海丸にて、密使宮崎竜介を派遣するよう交渉せよ。上海丸上海に入港せば、一般船客下船ののち、ひそかに江南造船所の汽艇により、南京に連行せしむ、連絡のため周某を上海に派遣せり』
 という内容であったらしく、この電報が陸軍当局に速報され、参謀本部ではこれを陸軍省に通じ、陸軍省は憲兵隊に連絡して、宮崎竜介の逮捕を要求し、東京憲兵隊では憲兵曹長上原文雄(私)神戸に急行せしめて、これを逮捕したことになっている。
(この記事は、大谷敬二郎著「昭和憲兵史」〔みすず書房、一九六六〕日本週報「生きていた憲兵」読売週間「陸軍中野学校」等に掲載されている)
 この記事だと、陸軍は近衛首相の事件不拡大方針を斥けて、事変を拡大せしめた元凶であり、憲兵はその手先となり、特に私は事変拡大に貢献した張本人であり、このままだと汚名を万世に残すことになるので、当時の実情を詳述しておくことにする。
 私が、情報入手先から事務室に戻ったのは、七月三日の午後五時頃であった。
〔東京憲兵隊本部〕特高課長林秀澄〈ハヤシ・ヒデズミ〉少佐、付和田少尉〔ママ〕、係長和田准尉等が残っていて、和田少尉が、
「今から神戸に赴き、場合によっては上海まで行くことになるから、官舎へ帰って仕度をしてくるように」
 と言い、どんな任務かも聞かされず、そのまま詰所へ帰って着替をし、妻には
「何だか判らぬ用件だが、すぐ神戸に立たなければならん。仕事の都合で長くなるかも知れないから、余り長引くようだったら、郷里へ帰っておるように」
 と伝えて事務室に戻った。
 課長以下は支那係の小山曹長を待っていて、
「小山曹長が戻ってから、任務を伝える」
 ということで、暫らくそのまま待たされた。
 小山曹長が戻って来て、課長室で何事か報告した後で私は課長室に呼ばれた。
「近術首相の密使として、宮崎竜介が明朝八時神戸出港の長崎丸で上海に渡航することになった。貴官は今晩夜行で神戸に向い、長崎丸に乗船して宮崎を監視しながら上海まで同船し、上海に上陸しても宮崎と離れないように最後まで同行せよ。
 もし途中で宮崎の渡航を中止するように軍の方針が決定すれば、神戸か長崎で他の憲兵が取り押さえることになつているから、そのときは宮崎を逃がさないようにしてその憲兵の逮捕に協力せよ。
 なお詳細は、小山曹長が駐日大使館付劉武官から得た情報があるので、それによって打合せて行くこと」
 と命ぜられ、旅費として、百円紙幣七枚が渡された。【以下、次回】

 文中、「特高課長林秀澄少佐、付和田少尉」とあるのは、「特高課長林秀澄少佐付、和田少尉」ではないかと思ったが、そのままにしておいた。
 読売週間「陸軍中野学校」とあるのは、畠山清行著『陸軍中野学校』(サンケイ新聞出版局、一九六六)ではないかと思われるが、未確認。日本週報「生きていた憲兵」とあるのは、大谷敬二郎著『にくまれ憲兵』(日本週報社、一九五七)ではないかと思って、同書を引っぱり出したが、宮崎竜介逮捕のことには触れていなかった。

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