◎そんな本を読むより牧野英一の本を読め(牧野英一)
日本法社会学会編『法社会学』の第二八号「現代社会と法」(有斐閣、一九七五年一〇月)から、風早八十二の講演記録「戦前の日本型ファシズムと法学及び法学者」を紹介している。本日は、その四回目。
昨日、紹介した箇所のあと、改行して次のように続いている(一二五~一二八ページ)。
こんなことは、ゴシップとして聞き流してもらったほうがいいと思いますが、いいたかったことは、美濃部・上杉論争は、第一次大戦後の政治的・社会的情勢発展の中で、新旧勢力のすでに和解しがたいシビアーな対立を反映していたということです。美濃部達吉博士は、すでに、日露戦争より前の明治三十五、六年頃ですね、ドイツからの帰朝報告の第一声としてヴォルツェンドルフの『グレンツェン・デア・ポリツァイゲワルト』の紹介に寄せて、絶対主義的権力にメスを加えており、その後も、絶対主義者穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉の憲法論に対し、「全巻五〇〇頁のうち、誤りなきは一頁もなし」と決めつけています。いうまでもなく穂積八束博士は激怒し、その門下の上杉〔慎吉〕博士をして、美濃部攻撃をやらせ、文部大臣に美濃部罷免〈ヒメン〉を要求する上申書も出させたのです。ただ、面白いといっては語弊がありますが、時の文部大臣は菊池大麓博士、実はこれは美濃部先生の岳父にあたる人、そういうややこしい事情もあったかどうかはわかりませんが、ともかくも結果は、うやむやになりましたがね。いづれにせよ、後年同じ研究室内でおたがい会釈も交さない背景には、歴史的に根ぶかい思想的対立が横っていたことを示すものといえるでしょう。
さて私の刑法研究室ですが、それは、牧野〔英一〕御大と、フランスから新帰朝の小野清一郎助教授と私の三人ぽっちで、深閑とした部屋でした。小使さんが居ませんので雑役〈ザツエキ〉はすべて私がひきうけることになる。部屋中、堆く〈ウズタカク〉積み上げられた書棚の雑巾がけをはじめ、牧野博士が病気療養でたまっていた二千号をこえる高窪喜八郎編集の『法律新聞』のバック・ナンバアの整理と製本、それに、先生が茅ケ崎から帰ってきてまだ半ば療養中ということで、一日に、二、三回吸入をなさる、その吸入のお世話であるとか、そのほかいろいろ身のまわりのお世話をふくめてです。それはそれで構いませんが、一番困ったのは、朝八時から午後四時までは、自分の勉強をしてはいけないということでした。何といっても、私は学者の卵です。当時は生涯のうちでも、研究慾に燃えており、寸時も惜しい時期ですからね。丸善のいっぱしいい顧客として、どんどん洋書を注文する。朝八時に研究室に入ると、もう私のデスクの上には、エンリコ・フェーリの『ソシオロジー・リミネル』など大きなフランス仮綴〈カリトジ〉の書物が、とどいていて、こういうふうにだっと積んである。私は早速クートー〔ペーパーナイフ〕を用いながら、むさぼり読む。ところが牧野先生それを大変いやがった、というより怒るわけですよ。そういう自分の勉強は家に帰ってやれ、第一そんな本を読むより、まず日本一の刑法学者牧野英一の本を読め、とね。それもそうにちがいないのですが、若かりし当時の私にとっては、非常な拘束を感じたというのが、いつわらぬ心境でした。
ただ、研究室全体のならわしとして、十二時から一時までの昼の時間だけはですね、各研究室の助手・副手は解放され、みんな大部屋(共同研究室)に集まり、昼飯を一緒にしながら、自由な談論の花を咲かせるのです。恵まれた民法研究室の諸君などとちがって、私にとってはこの時間は文字どおり解放感に浸り、勝手なメートルをあげて〔気炎を吐いて〕、うっぷんを晴らすチャンスであったわけです。
【中略】
前に戻りますが、大部屋では、法社会学だけではなく、これに「対抗」して、法理学の木村亀二君を筆頭に先験哲学いわゆる「トランツェンデンタール」派というものかあり、やれカントだ、やれスタムラア〔Rudolf Stammler〕だと。そして法社会学をやっている連
中に向って、「君たち、生きた法律というが、要するにザインにすぎないだろう。ザインはどこまでもザインだよ。それによって規範を根拠づけることなんかできやしないよ。」というわけです。こうして、寄るとさわると、ザインとゾルレンとが結びつくとか、つかないとか、どうして結びつくとか、侃々諤諤〈カンカンガクガク〉の議論がくりかえされました。
「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定・その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動のなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上、批判的であり、革命的であること」、これは資本論の弁証法ですが、こういう世界観と弁証法論理をその頃身につけておれば、問題はなかったんですけれどねえ。……遺憾ながら当時の「大部屋」の議論の中で、誰もそれがわからなかったのです。かく申す私自身、その証拠に、一九二四年〔大正一三〕一月号、三月号の『国家学会雑誌』にのせた「不能犯論」(これは、九大への就職論文として美濃部先生に提出したもので、一一〇頁にのぼる大論文です)にしても、自由法論の限界に留めておけばまだしも救われたであろうにことさらに、スタムラアの批判的方法による総括をもって結んでいます。このことは、私が当時まだ根本において唯物弁証法も唯物史観もつかんでおらず観念的方法二元論にふりまわされて動揺していたことを示すものといえるでしょう。当時私の「不能犯論」をもっとも激賞してくれたのは田中耕太郎助教授であったこともその後の両者の生涯の立場を省ると、まったく皮肉な話であるといわねばなりません。
しかし、「象牙の塔」ならぬ「赤れん瓦の研究室」の中で、「あれか、これか」(Entweder Oder)の果てしない議論に浮身をやつしている間に、そとでは、労働運動・社会主義運動の勃興と絡みあってめざましい高揚を見た第一次大戦後の「(大正)デモクラシー運動」(実は、わが法社会学の「流行」そのものも、その一つの現象形態)に対し、はやくも、新たな政治反動の情勢が生れつつあったのです。【中略】ここではさしあたり、その欠かせない指標として、一九二二年二月の過激社会運動取締法案の貴族院本会議への上程から、大震災時の緊急勅令「治安維持令」を経て、一九二五年〔大正一四〕の普選法〔普通選挙法〕に抱き合せて公布の)「治安維持法」制定にいたる治安立法政策を挙げるにとどめておきます。【以下、次回】
風早八十二の講演記録の紹介が長くなってしまったが、次回で最後とする予定である。